役行者の話
修験道に関係する山を歩いていると、役行者(えんのぎょうじゃ)の像をよく目にする。この修験道の祖とされる役行者はどのような人だったのだろうか。
役小角(えんのおづぬ)、あるいは役君(えんのきみ)、とも呼ばれる役行者は、奈良県御所市(ごせし)の西にそびえる葛城山(かつらぎさん)に住んでいたとされる。葛城山は奈良県と大阪府との境につらなる金剛山地の峰のひとつであり、行者はこの山を拠点に活動した山岳修行者か呪術師だったのではないかといわれている。
六九九年に朝廷が役行者を伊豆の島に流罪にした、という記事が続日本紀(しょくにほんぎ)という古代日本の歴史書に載っているから、役行者という人物がそのころ実在したのは確かなことのようである。その記述によると、神通力の持ち主として知られる役行者は、その力を使って鬼神たちに水汲みや薪集めなどの仕事をさせ、従わない鬼神は呪術で縛って動けなくしていた。ところがその力をねたんだ弟子の韓国連広足(からくにの・むらじ・ひろたり)が、行者が妖術を使って人々を惑わせていると朝廷に訴えたため流罪にされたというのである。
正史に残る行者関係の記述はこれのみであり、正史にしてはいささかあやしげな内容であるが、これは後世の人が言い伝えをそのまま書き残したものらしい。なお日本霊異記(りょういき)には、行者が七〇一年に恩赦で許されて都の近くに帰ったとあるが、続日本紀には恩赦に関する記述はあっても、行者が恩赦で許されたという記述はない。
役の行者の実際の行動範囲は、おそらく葛城山から吉野にかけての奈良盆地南部と、流刑地の伊豆諸島ぐらいであったと思う。ところが後に修験道の開祖に祭り上げられたことで、全国各地に開かれた修験道の山の多くが、役行者によって開山されたとか、その聖跡であるとか言われるようになったのであろう。そして江戸時代には朝廷から神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の諡(おくり名)まで授けられたのであるが、修験道という山岳信仰が体系づけられるのは平安時代以降のことであり、それは行者の時代から百年以上もあとのことである。
吉野の蔵王堂(ざおうどう)は役行者の開創と伝えられており、そこに本尊として祀られている三体の巨大な蔵王権現(ざおうごんげん)像は行者が感得したものとされる。鎌倉時代に書かれた沙石集(させきしゅう)にそのときの話が載っている。
役行者が吉野山で修行していると、釈迦牟尼仏の尊像が姿を現した。「このお姿ではこの国の衆生を救うのは難しい。隠れさせ給え」と行者が言うと、つぎに弥勒菩薩の尊像が現れた。「なおこれもかなわじ」と言うと、つぎに蔵王権現の恐ろしげなる尊像が現れた。その姿を見るや「これこそ我が国を教化するにふさわしい」と行者は言い、こうして蔵王権現が本尊にされたというのである。
日本霊異記
平安時代初期に書かれた日本霊異記の上巻第二十八に、役行者のことがかなり詳しく載っている。これが平安時代の人が思いえがいた役行者像と考えていいのであろう。
行者は霊異記では役の優婆塞(えのうばそく)と呼ばれており、氏(うじ)は賀武の役(かものえ)、名は小角(おづぬ)、生まれは現在の奈良県御所市(ごせし)茅原村(ちはらむら)とある。優婆塞とは在俗の仏道修行者のことである。
行者は生まれながらに智恵を備え、博学なること村一番であり、あつく三宝を信じ仏道修行に精進していた。行者がいつも願うことは、五色の雲に乗って大空を飛び、仙人たちの宮殿を訪ね、永遠の庭に遊び、花に満ちた苑に眠り、霊性を養う気を食することであった。そのため晩年というべき四十余歳になってもなお岩窟に住み、葛(くず)の着物をまとい、松を食べ、清らかな泉で沐浴して欲界の垢をそそぎ、孔雀王の呪法を習い修めた。そのため不可思議なる神通力が身に備わり、鬼神たちを駆使することも自在であった。
藤原の宮で天下を治めた文武天皇(もんむてんのう。六八三年〜七〇七年)の治世のこと、役行者が多くの鬼神を集めて彼らに命じた。「吉野の金峰山(きんぶせん)から葛城山まで橋を渡せ」。金峰山とは大峰回峰行(おおみねかいほうぎょう)が行われている吉野から山上ヶ岳(さんじょうがたけ)にかけての山々のことである。
これを聞いた神々は困惑して嘆き悲しんだ。そこで葛城の峰の一言主(ひとことぬし)の大神(おおかみ)が一計を案じ、人にのり移って告発して言った。「役行者が陰謀をくわだて天皇を倒そうとしている」
そのため天皇は行者を捕らえるように命じたが、役人たちは神通力を持つ行者を捕らえることができなかった。そこで代わりに母を捕らえ、行者は母を助けるために出頭し、伊豆の島に流された。
伊豆の島で行者は、海に浮かび立ち、水の上を陸のように走り、高い山に腰をおろし、鳳凰が飛ぶが如く大空を飛び、昼は天皇の命に従うがごとく島で修行し、夜は駿河の富士の峰へ行って修行した。こうして伊豆の島で憂い嘆くこと三年、七〇一年の正月に朝廷の慈悲で都の近くに帰ることを許され、その後仙人になって天に飛び去った。
道昭(どうしょう)という法師が天皇の命により、仏法を求めて唐の国へ渡ったとき、五百の虎の請いを受けて新羅(しらぎ)の国の山中で法華経を講じたことがあった。ところが虎の中にひとりの人間がいて日本の言葉で問うてきた。「誰ぞ」と法師が問うと、それは役行者であった。法師は「我が国の聖人なり」と思い、すぐに高座から下りて探したがすでに行者の姿はなかった。
霊異記の最後はこう結ばれている。一言主の大神は行者に呪縛せられて今に至るまで脱することができずにいる。行者が不可思議な霊験を現じたことはあまりに多く、とてもすべては書き尽くせない。仏法の霊験はまことに広大であり、帰依するものは必ず知恵と力を得る。
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