空の話
般若心経は魔除けの霊験あらたかなお経とされる。魔物は真理を恐れるものなので、端的に真理を説く般若心経には絶大なる魔除けの効果があるとされるのである。その般若心経の中でもとくに大事なのが「色即是空、空即是色」の一節であり、それをさらに集約すると「空」の一字になる。
諸行無常と言われるごとく、この世界は変化してやむことがない。変化してやまないのは全てのものに実体がないからであり、その実体のないことを空という。もしも世界が不変不滅の実体でできていれば変化しないことになるが、そもそも変化しないなら世界が存在したとしても存在する意味がない。一切皆空の諸行無常だからこそ変化しながら存在できるのである。
一切皆空とは一切は夢まぼろしだということであるが、目前に明らかに存在しているのだから無ではない。そして一切は夢中のでき事だと納得しない限り、この夢まぼろしの世界に苦しめられる。実在すると思って執着すれば全ては苦の原因になり、一切皆空と切り捨てることができれば苦を解決できるのである。
誰しもこの体が自分だと思って執着しているが、体の中のどこを探してもこれが自分だというものは見つからない。この体はつねに外部の物質と入れ替わりながら存在するもの、遠からず跡形もなく消滅していくものである。
誰しも心の中に自分というものがあると思ってその自分なるものに執着しているが、心の中に自分というかたまりはない。何もないのが心の本体であり、何もないのが私たちの本心本性である。その何もないのを空というのであるから、空は即ち無我である。
空とか無我とか聞いてさびしく思うことはない。空とか無我は執着を離れた大きな心のことである。空こそ私たちのふる里であり、無我こそ大安楽の世界である。否定的に言えば空であり無我であるが、肯定的に言えば仏心仏性であり不滅の自己である。
空は世界の本質であり、自己の本質でもある。だから空によって世界と自分が一つになる。あらゆる世界、あらゆる時間、あらゆる生き物、全ては自分自身である。空の真理から、全ては一つの命の現れであるという智慧と、全ては一つの命を生きる仲間であるという慈悲心が生まれてくる。空は智恵と慈悲の根源なのである。
空が私たちの本質だということは、私たちは歳も取らず、病気にもならず、死にもしない存在だということである。目も耳も悪くなってきた、足腰も弱ってきた、ということになろうとも、空なる私たちの本質に影響はない。私たちは空から生まれ来て、空へ帰っていく。塩でできた人形が海に入っていくようなもので、人形は海水に溶けてどこへ行ったか分からなくなるが、無くなるわけではない。
チベット仏教の指導者ダライラマ曰く。「思いやり、忍耐、慈悲心といったものは、仏教徒であろうとなかろうと実践できるものである。しかし空の理論は仏教特有の教えであり、空こそがまさに仏教の本務なのだ」
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