迦那提婆尊者

西天の第十五祖、迦那提婆(かなだいば)尊者は、竜樹尊者の法嗣であり、羅ゴ羅多(らごらた)尊者の師である。(ゴ:目の右に侯)

尊者は雄弁家として知られ、その雄弁な宗風は提婆宗(だいばしゅう)と呼ばれたが、その卓越した弁才でもって仏法挙揚のために縦横無尽に外道を論破して回ったので、論敵に恨まれて殺されたとも伝えられている。なお碧巌録十三則の「僧、巴陵(はりょう)に問う。如何なるかこれ提婆宗。巴陵曰わく。銀椀裏に雪を盛る」の提婆は迦那提婆尊者のことである。

尊者は南天竺国のバイシャ(カーストの三番目の階級。農商工業などの生産に従事する階級)の家に生まれ、初めは福業を求め、また弁論を好んでいたが、ある日、竜樹大士を訪ねて謁見した。

尊者が門に到着したとき、大士は彼が智人であることを知り、侍者を遣わして水の満ちた鉢を前に置かせた。これを見た尊者は一本の針を投じて進み、欣然として大士にまみえた。

そのとき竜樹大士は尊者のために説法をしたが、座に大士の姿はなく、ただ月輪の相が見え、声が聞こえるのみであった。尊者が衆に語って言った。「この奇瑞は師が仏性を現じているのであり、また説法は声と形に非ざることを表している」

得法ののち毘羅国(びらこく)へ行くと、その国に梵摩浄徳(ぼんまじょうとく)という長者がいた。ある日、その長者の家の庭木に大きく美味なキノコが生えてきた。ところがそれを採って食べることができるのは長者と第二子の羅ゴ羅多のみであり、ほかの人は見ることもできず、しかもキノコは採るとすぐにまた生えてきた。尊者はそのキノコの過去の因縁を知り、長者の家をたずねて告げた。

「汝の家で昔ひとりの比丘を供養し、その比丘は道眼が明らかでないのに多くの供養を受けた。そのためその報いとしてその比丘は今キノコになった。長者と第二子のみが食べることができるのは、二人が誠意をもって供養したからである。長者は今いくつになるのか」

「七十九なり」

すると尊者は偈をもって示した。

「道に入りて理に通ぜざれば

 身をもって信施を還す

 汝の年八十一にして

 この樹キノコを生ぜず」(この偈は臨済録に引用されている)

長者は偈を聞くと感服して言った。「弟子すでに衰老し、師に仕えること能わず。願わくはこの第二子を師に従って出家せしめんことを」

すると尊者が言った。「昔、如来が、この子はまさに第二の五百年に大教主たるべしと記す。今こうして会うはけだし宿因にかなう」。そしてただちに剃髪して弟子にした。

尊者が巴連弗城へ行くと、そこでは諸々の外道が久しく仏法の邪魔をしていた。そこで尊者は法戦をするべく長い旗を持って外道の衆中に入り、外道がしきりに議論を仕掛けてくるのを、無礙の弁で挫いて回った。そのため外道はみな帰伏した。それから尊者は上足の羅ゴ羅多に法眼を付し、そして一偈を説いた。

「本、伝法の人に対して

 為に解脱の理を説く

 法においては実に證なく

 終なくまた始なし」

説きおわると尊者は奮迅定に入り、身より八光を放って寂滅に帰し、学衆は塔を作ってこれを供養した。前漢、文帝の十九年(前一六一年)のことであった。

出典「景徳伝灯録巻第二。第十五祖迦那提婆」

もどる