善の研究の話
「善の研究」というのは明治四四年に出版された哲学本の書名であり、著者の西田幾多郎(きたろう)氏は坐禅修行の体験をもとに、西田哲学と呼ばれる哲学体系を作り上げた人である。日本人が創造した哲学はこの西田哲学だけとされており、彼が残した教えや、坐禅と思索の生活習慣は、今も彼が教えていた京都の地で受けつがれている。
彼は明治三年四月十九日に現在の石川県かほく市で生まれ、昭和二〇年六月七日に鎌倉の自宅で七六歳で亡くなった。だから戦争が続く動乱の時代を哲学一筋に生きた人ということができる。彼が学んだ金沢の第四高等中学校の同級生には禅学の鈴木大拙がいた。彼が禅に興味を持つようになったのは鈴木大拙の影響といわれる。
彼は四二歳のときに初めて本を出版し、この本のために京都の紙の値段が上がったといわれるほどこの本はよく読まれた。それが善の研究であり、坐禅の体験から生まれた哲学であるからその内容はきわめて禅的である。
ここではその結論部分を抜き書きでご紹介する。これを読むと禅は永遠の命に目覚めるための教えであることがよく分かる。諸行無常とか、諸法無我とか、一切皆空とか、仏教は否定的なことばかり言っていると思われがちだが、否定するのは最後に残ったものを肯定するためなのである。
「われわれの精神が完全の状態すなわち統一の状態にあるときが快楽であって、不完全の状態すなわち分裂の状態にあるときが苦痛である。右にいったごとく精神は実在の統一作用であるが、統一の裏面には必ず矛盾衝突を伴う。この矛盾衝突の場合にはつねに苦痛である。無限なる統一的活動は直ちにこの矛盾衝突を脱してさらに一層大なる統一に達せんとするのである。このときわれわれの心に種々の欲望を生じ理想を生じる。しかしてこの一層大なる統一に達しえたるときすなわちわれわれの欲望または理想を満足しえたときは快楽となるのである」
「時間空間の間に束縛せられたる小さきわれわれの胸の中にも無限の力が潜んでいる。すなわち無限なる実在の統一力が潜んでいる、われわれはこの力を有するがゆえに学問において宇宙の真理を探ることができ、芸術において実在の真意を現すことができる、われわれは自己の心底において宇宙を構成する実在の根本を知ることができる、すなわち神の面目を捕捉することができる」
「善とは一言にいえば人格の実現である。これを内よりみれば、真摯なる要求の満足、すなわち意識統一であって、その極は自他相忘れ、主客相没するというところにいたらねばならぬ」
「われわれが内に自己を鍛錬して自己の真体に達するとともに、外自ら人類一味の愛を生じて最上の善目的に合うようになる、これを完全なる真の善行というのである」
「いかに小さな事業にしても、つねに人類一味の愛情より働いている人は、偉大なる人類的人格を実現しつつある人といわねばならぬ」
「実地上真の善とはただ一つあるのみである、すなわち真の自己を知るということにつきている。われわれの真の自己は宇宙の本体である。真の自己を知ればただに人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合するのである。宗教も道徳も実にここに尽きている。
しかして真の自己を知り神と合する法は、ただ主客合一の力を自得するにあるのみである。しかしてこの力を得るのはわれわれのこの偽我を殺しつくして一たびこの世の欲より死してのち蘇るのである。かくのごとくにしてはじめて真に主客合一の境にいたることができる。これが宗教道徳美術の極意である」
「宗教的要求は自己に対する要求である。自己の生命についての要求である。われわれの自己がその相対的にして有限なることを覚知するとともに、絶対無限の力に合一してこれによりて永遠の真生命を得んと欲するの要求である」
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