白隠禅師坐禅和讃

白隠禅師の仮名法語の代表作、坐禅和讃(ざぜんわさん)をご紹介する。もっともこの和讃は臨済宗の経本には必ず載っているものなので、初めて読むという人は少ないと思う。坐禅和讃の制作年代は明らかではなく、若いときの作という説もあれば、晩年の作という説もある。

坐禅和讃は「衆生本来、仏なり」で始まり、中ほどに「直に自性(じしょう)を証すれば」とあり、「此の身即ち仏なり」で終わる。よくできた構成だと思う。「衆生本来仏なり」は大乗仏教の根本を端的に表現した言葉であるが、本来というのだからまだ効能書きの段階である。それが「直に自性を証する」ことで、「此の身即ち仏なり」となるのである。

この和讃でいちばん分かりにくいのは、「因果一如の門ひらけ」の一節だと思う。因果は原因と結果の法則、ものごとはすべて原因があって結果がある、だから原因を変えれば結果も変わる、原因をなくせば結果もなくなる、という因果の法則を意味している。世界は因果の法則にしたがって動いている、宇宙は無数の因果関係で成り立っている、というのが、仏教が説くこの世界の基本法則である。そしてそれを人生に適用すると、善いことをすれば善い報いがある、悪いことをすれば悪い報いがある、という道徳律になる。この道徳律が仏教の背骨なのである。

ところが「因果一如」は因果を否定している。一如は等しいこと、同じであることを意味するから、因果一如ならそこに因果関係は存在しないことになる。なぜ因果一如なのか。

この一節は一切皆空の世界、一味平等の世界、仏心仏性の世界を表している。因果は差別の世界であるが、空は無差別の世界である。だからこそ、積みし無量の罪がほろぶのであり、悪趣いずくに有ぬべきなのであり、無二無三の道なのであり、無相の相なのであり、無念の念なのであり、三昧無礙(さんまいむげ)の空が広がるのであり、寂滅が現前するのである。坐禅をすれば一切皆空の門が開けてくる。それが坐禅和讃の主題である。

言葉の意味を簡単に説明すると、

摩訶衍(まかえん)は大乗仏教。

諸波羅蜜(しょはらみつ)は、布施、持戒、忍辱(にんにく)、精進、禅定、智恵の六波羅蜜。

回向(えこう)は、回向返照(えこうへんしょう)、本心を明らめること。

四智(しち)は、大円鏡智(だいえんきょうち)、平等性智(びょうどうしょうち)、妙観察智(みょうかんさっち)、成所作智(じょうしょさち)。

蓮華国(れんげこく)は仏さまの国。


     
白隠禅師坐禅和讃

衆生本来、仏なり 水と氷のごとくにて

水をはなれて氷なく 衆生の外(ほか)に仏なし

衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ

たとえば水の中(なか)に居て 渇(かつ)を叫ぶがごとくなり

長者の家の子となりて 貧里(ひんり)に迷うに異ならず

六趣輪廻(ろくしゅりんね)の因縁は 己(おのれ)が愚痴の闇路なり

闇路に闇路を踏(ふみ)そえて いつか生死を離るべき

それ摩訶衍(まかえん)の禅定は 称歎(しょうたん)するに余りあり

布施や持戒の諸波羅蜜(しょはらみつ) 念仏懺悔(さんげ)修行等

其の品多き諸善行(しょぜんぎょう) 皆この中(うち)に帰するなり

一座の功をなす人も 積みし無量の罪ほろぶ

悪趣(あくしゅ)いずくに有ぬべき 浄土即ち遠からず

辱(かたじけ)なくも此の法(のり)を 一たび耳にふるる時

讃歎随喜(さんたんずいき)する人は 福を得ること限りなし

いわんや自ら回向して 直に自性(じしょう)を証すれば

自性即ち無性(むしょう)にて すでに戯論(けろん)を離れたり

因果一如(いんがいちにょ)の門ひらけ 無二無三(むにむさん)の道直し

無相の相を相として 行(ゆ)くも帰るも余所(よそ)ならず

無念の念を念として 謡(うた)うも舞うも法(のり)の声

三昧無礙(さんまいむげ)の空ひろく 四智円明(しちえんみょう)の月さえん

此の時何をか求むべき 寂滅(じゃくめつ)現前するゆえに

当所即ち蓮華国(れんげこく) 此の身即ち仏なり

もどる