ラオスの話
平成二二年三月、ラオスを旅してきた。この国は正式国名をラオス人民民主共和国といい、公用語はラオス語、人口は約五八〇万人、国土の面積は日本の本州ぐらいという国である。
旅行案内書によるとこの国の政体は、人民民主共和制という意味のよく分からない政体になっているが、中身はラオス人民革命党という共産主義の独裁政権である。国名に人民がつく国は人民をないがしろにする独裁国家が多いのであるが、そのあたりのことは短期の旅行では分からなかった。
ラオスは五十から百ほどの民族からなる多民族国家であり、民族数に幅があるのは数え方によって数が違ってくるからという。この国における民族分類法の一つに、居住する場所の標高によって、高地ラオス人、中地ラオス人、低地ラオス人、と分ける方法があり、低地ラオス人に属するラオ族が人口の六〇パーセントを占めている。ラオスという国名には「ラオ族の国」の意味があって、これは旧宗主国のフランスが付けたものだという。
この国は国土の八割が山岳地帯という山国である。二八一七メートルのビア山が最高峰であるからそれほど高い山はないが、耕作適地が限られているため、移動しながら焼畑耕作で陸稲や雑穀を作って生活する人が山岳地帯に住んでいる。ところが地球温暖化の原因になる焼畑耕作への風当たりが国際的に強まってきたので、ラオス政府は焼畑を止めて定住するように指導している。
この国の二〇〇七年の国内総生産は一人あたりにすると六七八ドル(年に六万円強)であり、これは隣国タイの六分の一だというが、国民の八割以上が農民なので食べ物の不足はないらしい。
日本ではまだ桜も咲いていない季節であったが、ラオスでは日中気温が三五度ぐらいまで上がっていた。そういう暑い国なので、ラオスの伝統的な民家は木と竹で作った風通しのよい小屋である。壁は薄くはいだ竹を縦横に編んだだけのすき間だらけの壁なので、中の灯りが透けて見えていた。屋根は草葺きである。
この国の農村では、家を建てるときには村人が総出で手伝ってくれるという。昔の日本でいう普請(ふしん)である。男は家、女は食事の準備、という役割で半日がかりで柱と屋根と床を作り、あとは酒盛りになる。残りの部分は住人があとでゆっくり作るのである。
バスで走っているとき、民家の庭に設置された小さな炭焼き窯をよく見かけた。これは煮炊きに使う炭を焼くためのもので、木をそのまま燃やすと家の中が煙くなるからという。南部へ行くと高床式の家が多くなる。これは雨期の洪水対策であり、高い床下は昼寝場所として最適である。
この国では蒸したもち米のご飯が主食になっている。このご飯はおいしかった。副食でおいしかったのは淡泊な白身のナマズの唐揚げ。生きたカエルや、タレを付けて串焼きにしたカエルを売る店があった。カエルには大と小の二種類があり、小さい方の串焼きを食べてみたらドジョウのような味わいでおいしかった。スープにするというネズミも売っていた。ただしネズミと聞いたが尾にふさふさと毛が生えていたからリスかもしれない。タガメのような大きな虫も売っていた。焼いてから味噌と一緒につぶして食べると精力剤になるという。食える物は何でも食うというたくましさが感じられた。
ラオスの仏教
ラオスに関心を持つ日本人は少ない。そのためラオスを紹介する本も少なく、この国の仏教のことを紹介する本に至ってはまったく見つからなかった。そのためラオスの仏教を本で知ることはできなかったが、ガイドの話では、タイやミャンマーと同じように一生に一度出家する習慣があるというから、この国の仏教はタイかミャンマー経由で入ってきた上座部仏教と考えてまちがいないと思う。
ガイドに出家したことがあるかときいたら、二〇歳のとき一週間だけ出家したと言っていたが、体験出家は最近あまり行われていないという。おそらくそれにはこの国が共産主義国になったことが影響していると思う。そのとき仏教も迫害されたが、国民の反発が大きかったのですぐに復活したという。
この国では出家しても出家のままで一生すごす人は少なく、若者の中には勉強することを目的に数年間だけ出家する人さえあるという。つまりお寺から学校へ通わせてもらい、卒業したら還俗してしまうのであるが、それでも問題はないというからお寺が教育の一端を担っているといえる。これも衆生済度のひとつと割り切っているのだろう。
ラオスは共産国なので仏教はもちろん国教にはなっていないが、国民の大半が仏教徒というから、この国を仏教国の仲間に加えてもいいと思う。ただし調査を行ったことがないのか、仏教徒の占める割合といったことはどこにも載っていなかった。
ラオスの見どころ
この国では「古都ルアンパバーン」と「プー寺院遺跡」の二つが世界遺産になっている。それにジャール平原にある正体不明の巨大な石の壺群(石棺説が有力)を加えた三つが、この国の代表的な観光資源である。
町全体が世界遺産になっているラオス北部の町ルアンパバーンは、ラオス国の原型になったランサン王国の首都のあった町である。ランサンが「百万頭の象」を意味することから分かるようにラオスは象の国であるが、この町の観光の目玉は象ではなく托鉢(たくはつ)見学である。
夜明けとともにたくさんの比丘(びく。修行僧)が市内を托鉢して回る。それが観光資源になっているのだからお坊さんたちにとっては迷惑な話だと思いながらも、私たち一行も町の人と一緒にご飯を供養した。そのための費用が旅費に含まれているので準備はすべて旅行社がしてくれた。歩道にゴザを敷いて坐り、礼装用の布を肩にかけ、竹で編んだおひつに入った蒸したてのご飯をもって待っていると、比丘の集団が寺ごとに裸足で足早に歩いて来た。
私の前を通った比丘は全部で五組、百五十人ほどであった。数十人の比丘が一列に並んで足早に通りすぎるため、手早くご飯を鉢に入れなければならず、シャモジなどでは間に合わないから手づかみである。蒸したてのご飯なので中の方は熱く、そのため指先をやけどしそうになった。多人数なので一つまみずつ入れなければならなかったが、私は一度にたくさん入れたのですぐにご飯が売れ切れた。托鉢で入れるのはご飯のみであり、副食は布施する人が直接お寺へ持っていくという。
もう一つの世界遺産はラオス南部のプー寺院(ワット・プー)を中心とする遺跡である。ここは五世紀ごろに栄えたチャムパーサック王国の首都のあった所で、中心となるプー寺院はシバ神をまつるヒンズー寺院であり、その裏山はシバの聖なるリンガ(象徴)と見なされていた。
山の中腹にある本殿まで登っていくと、ここに寺院を建てた理由が理解できた。そこは東に開けた高台で景色が良く、巨岩の連なりが聖地の雰囲気を生み出しており、登ってきたとき霊気のようなものを感じた。本殿にはシバ神の代わりに仏像がまつられていたので、同行者に頼まれて仏前で読経した。
この遺跡を作ったのはクメール人であったが、のちに彼らはここを放棄して南西二百キロにあるアンコールの地に移動した。そしてこの移動の成功によりクメール王朝はインドシナ半島を席巻する大王朝へと発展し、アンコール・ワットやアンコール・トムなどの巨大建造物を作った。この王朝がカンボジアの基礎になったのであるが、彼らの栄光はそこまでであった。その後のカンボジアを待っていたのは悲惨な歴史ばかりなのである。
ラオスの泣きどころ
地図を見るとこの国の泣き所がすぐに分かる。ラオスはタイ、ミャンマー、カンボジア、ベトナム、中国と地続きの内陸国である。そのためこれら五ヵ国と国境紛争を起こす恐れがあるし、戦争になればすぐに攻め込まれる心配もある。またまったく海に面していないので、この五ヵ国以外の国と貿易をするのはきわめて不利である。
さらに首都ビエンチャンは、あいだにメコン川があるとはいえタイとの国境に位置している。世界広しといえど国境に首都のある国はラオスぐらいであり、そのためタイと戦争したときには小銃の弾でさえメコン川を越えて首都に着弾したという。ガイドからこの話を聞いたとき、「それならいっそ山の中に首都を移転したら」と提言したら、「移転したくてもお金がない。お金ができてから考える」という返事であった。
しかもこの国といちばん仲の悪い国がタイということで、ガイドがタイの悪口を言い始めるときりがなかった。隣国と仲良くするのはどこも難しいものなのである。そのためオーストラリアが、両国の仲を取りもとうとビエンチャンとタイとを結ぶ橋をメコン川に架け、友好橋と名づけた。ところが友好橋ができても一向に仲は良くならないという。
とはいえ内陸国の悲しさで腹の立つことに、タイを経由しないと輸出入ができない、高い通行料はとられるし、荷物が届かないこともある、とガイドが怒っていた。反対方向のベトナム経由の方が、日本などの東アジア方面の貿易には便利なはずだし、同じ共産国なのでベトナムとは仲がいいはずだが、ベトナム側は道路や港湾の整備が遅れているという。またメコン川は物資の運搬には使えないという。
「それならタイとけんかしたらだめじゃない」
「その通り。過去のことより未来のことを考えなければいけない。それはよく分かっている」
ラオスとタイはベトナム戦争で敵対した。この戦争ではベトナム、ラオス、カンボジアの三国が戦場になり、北ベトナム側の補給路であったホーチミン・ルートは、その九割がラオス国内を通っていた。そのため米軍はラオスに爆弾の雨を降らせ、人口三百万人の国に三九〇万トンの爆弾を投下した。一人あたり一・三トンである。そしてその空爆の基地を提供したのがタイであった。
だからタイの次に嫌いなのがアメリカ、その次がラオスを植民地にしたフランスだという。ところがこの国では米ドルがどこでも使えたし、自国の通貨よりドルの方が信頼されているように見えた。アメリカと戦って追い出しはしたが、戦争が終わればロシアや中国よりアメリカの方がましということだろうか。
この旅行の現地ガイドは、海外青年協力隊の日本人から日本語を学んだという五七歳の男性、フンペン氏。ラオスで今いちばん大きな問題は何かと質問したら、経済問題と教育問題を挙げていた。
ラオスの歴史
ラオスの古い時代のことはほとんど分からない。多くの民族が移動と居住をくり返してきた国であるが、文字を持たない民族ばかりだったので文字史料が残っていないのである。そのためプー寺院に関して分かっているのは五世紀ごろクメール人が作ったということぐらい、ジャール平原の石の壺群は作った民族も年代も分からない。
ラオスの歴史がはっきりしてくるのは、ルアンパバーンに都を置いたランサン王国以降である。一三五三年、タイ系の民族であるラオ族のファーグム王によってランサン王国は建国され、国を統治するための原理として上座部仏教が導入された。首都ビエンチャンにはファーグム王の大きな像が立っている。
一五六〇年、ビルマの侵攻を避けるためランサン王国はビエンチャンに遷都し、王国守護のため今もラオスの象徴になっているタートルアンの仏塔が造られた。塔には仏舎利が納められている。
十七世紀、ランサン王国は最盛期を迎えたが、十八世紀初めには、ビエンチャン王国、ルアンパバーン王国、チャンパーサック王国の三つに分裂し、三王国ともシャム(タイ)の属国になった。
十九世紀の初め、三王国のひとつビエンチャン王国のアヌ王がシャムに反旗を翻したが、敗れてビエンチャン王国は消滅、ビエンチャンの町は破壊された。
十九世紀半ば、ベトナムとカンボジアを植民地にしたフランスが、ラオスにも手を伸ばしてきた。
一八九三年、シャムがフランスとの戦いに敗れたことで、ラオスはフランスの植民地となり、フランス領インドシナ連邦に組みこまれた。ところがラオスは山ばかりの人口の少ない国なので、フランスは植民地経営をしても儲からないと判断し、鉄道、道路、教育、医療などの整備はおこなわず、高い税金のみを取り立てた。そのためフランスに対する抵抗が各地で頻発した。
一九四〇年、第二次大戦が始まるとすぐにフランス本国はドイツに降伏し、日本は弱体化したフランスにインドシナ連邦への日本軍の駐留を認めさせた。
一九四五年(昭和二〇年)三月、ドイツの敗戦が決定的になると、フランスの動きを警戒した日本軍がインドシナ連邦のフランス軍を武装解除し、フランスによるラオス統治は中断した。
同年四月、日本がルアンパバーン王国を独立させたが、この独立は日本の敗戦により無効になった。この頃からラオスの独立運動が表面化し、同年十月、ラオス臨時人民政府が成立した。
一九四六年、フランスがラオスの再植民地化を開始したため、ラオス臨時人民政府はバンコクへ亡命した。
一九四九年、フランスの懐柔によりバンコクの亡命政府は解散するが、その一部がラオス自由戦線(ネオ・ラオ・イサラ。後にパテト・ラオと呼ばれる)を結成しフランスへの抵抗を続けた。こうして交渉により独立をめざす一派と、抗戦により独立をめざす一派に分裂したことで、ラオスは内戦状態になった。
一九五三年、フランスがラオス王国を完全独立させた。そのためラオス南部にラオス王国、北部にパテト・ラオという二つの地域、二つの政府が存在することになった。
一方、同じくフランスの植民地になっていた隣国ベトナムでは、一九四六年に独立戦争である第一次インドシナ戦争が始まった。フランスとベトナム独立同盟軍(ベトミン)との戦いである。そして一九五四年五月、ベトナム北部のフランス軍基地ディエンビエンフーが陥落したことで、第一次インドシナ戦争は終結に向かった。フランスはホーチミンひきいるベトミンに敗れたのであり、これによりベトナムは南北に分断された。
北ベトナムを掌握したホーチミンは、「南ベトナムを解放するにはまずラオスを共産化しなければならない」と宣言、共産軍はラオスを通るホーチミンルートを南下しながら、ラオスを共産化していった。
ここでフランスと入れ替わりにアメリカが出てきた。アメリカはインドシナ半島全体が共産化することを恐れていた。そのためアメリカはラオス王国を援助し、一方のソ連と北ベトナムはパテト・ラオを援助した。こうして東西陣営の対立がインドシナ半島で燃え上がり、本格的な戦争状態になってきた。
一九五七年、ラオス王国とパテト・ラオとの第一次連合政府が成立するがすぐに崩壊した。
一九六〇年、ベトナム戦争が始まった。
一九六一年、アメリカがラオス中部のロンチェン峡谷にロンチェン秘密基地を建設した。
一九六二年、第二次連合政府が成立するが十ヵ月で崩壊した。
一九六四年、ベトナム戦争が本格化し、アメリカはラオス北部の共産軍に対しても爆撃を開始した。しかしラオスやカンボジアでの戦争をアメリカは極秘裏に行っていた。ベトナムだけでなくラオスやカンボジアにまで爆弾の雨を降らせていたのだから、公表できなくて当然である。
一九六五年、アメリカはラオス北部に軍用機の誘導施設「サイト85」を建設して共産軍を攻撃し、爆撃の手はハノイにまで伸びた。
一九六八年、サイト85が陥落した。
一九六九年ごろ、軍事的に優位になったパテト・ラオが、王国政府へ和平交渉を呼びかけ、一九七三年、ラオス和平協定が締結、一九七四年、第三次連合政府が成立した。しかしすでに王国政府側は瓦解しつつあった。
一九七五年四月、カンボジアの首都プノンペンおよび北ベトナムの首都サイゴン陥落。五月、アメリカ軍のロンチェン秘密基地陥落。八月、ラオスの首都ビエンチャン陥落。こうして主な戦いは終結した。
同年十二月、軍事行動なしにラオス王国は廃止され、パテト・ラオがラオス人民民主共和国の樹立を宣言した。パテト・ラオを指導していたのはラオス人民革命党であり、それを指導していたのはベトナム共産党であるから、このときこの地域におけるベトナムの覇権が確立したのであった。
アメリカはラオスでの地上戦に高地ラオス人のモン族を利用した。彼らを反共戦士に仕立てて米兵の代わりをさせたのであり、モン族特殊部隊がいなければ、米軍の戦死者は数十万人増えていたといわれる。アメリカが撤退したときモン族の軍人は米国へ亡命したが、置き去りにされた人も多かった。残されたモン族軍人の運命は悲惨であった。ベトナム軍に徹底的に掃討されたからであり、その掃討作戦は今も続いているという。
ラオスを掌握した人民革命党は、資本主義の段階を経ずに社会主義国家を建設することをめざし、企業の国営化、農業の集団化などの政策を性急に行った。ところがこの政策は経済活動を停滞させただけでなく、食料や物資の不足、西側諸国からの援助の停止、人口の一割にもおよぶ難民の流出などを引きおこし、ラオスは混乱をきわめた。
一九八六年、人民革命党は性急な社会主義政策を見なおした。さらに一九九一年にソ連が崩壊したことから市場経済化政策がとられ、それからはあらゆる面で自由化と開放化が進みつつある。
下調べで読んだ本の中にラオス人が書いた本があった。著者は日本留学中にラオスが共産化されたため帰国できなくなり、日本人女性と結婚していたので日本に帰化したという人である。その人が「帰化する時いちばん苦労したのは、日本語の難しいことと、日本人の排他性だった。日本人は日本の国は日本人だけのものだと思っている」と書いている。そうかもしれないと思う。
参考文献
「地球の歩き方ラオス」2009年 ダイヤモンド社
「ラオス・日本・アジアに生きる」竹原茂 平成16年 麗澤大学出版会
「知られざる戦場ラオスからの出発」瀧山正夫 2004年 文芸社
「ラオスは戦場だった」竹内正右著 2004年 株式会社メコン
「仏の里らおす」太田亨著 東方出版 1999年
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