千の風の話
「千の風になって」という歌がはやったことがあった。「私のお墓の前で泣かないでください。私はお墓の中で眠ってなどいません。千の風になって大空を吹きわたっています」という内容の歌であった。だからこの歌を聴いた人の中には、そういうことならお墓など必要ないと考えた人もいたのではないかと思う。
実は禅宗にもよく似たこんな歌が伝えられている。「日はまなこ、虚空は体、風は息、海山かけてわが身なりけり」。また良寛さんはこんな歌を残している。「形見とて、何か残さむ、春は花、夏ほととぎす、秋はもみじ葉」
これらの歌は、千の風の歌の「千の風になって吹きわたり、光となって降りそそぎ、冬はきらめく雪となり、鳥となってあなたを目覚めさせ、星となってあなたを見守っています」と同じことをいっている。悟りを開くとこういう大きな命に目覚め、大安心を得ることができるというのである。
ならばやはりお墓など必要ない、海や山に散骨すればいい、ということになるのかというと、確かにそれも一つの方法だとは思うが、お墓はやはりあった方がいいと思う。お墓がないと日本のよき習慣のひとつである墓参ができないからである。お墓の草取りをしながら、亡くなった人に話しかけたり、想い出にふけったりすることで、心の安らぎを得ている人がたくさんいるのであり、また自分が入るお墓があるというのもささやかな心の安らぎである。
八世紀ごろの中国に慧忠(えちゅう)国師という禅僧がいた。国師と呼ばれたのは皇帝の師をつとめていたからであり、そのため亡くなるというとき皇帝が見舞いに来て質問した。「何かご所望のものはありますか」
国師が答えた。「老僧のために一基の無縫塔(むほうとう)を作られよ」。無縫塔というのは出家の墓に使われる卵形の石塔のことで、角や継ぎ目が無いことから無縫塔と呼ばれる。
「それはどの様な塔でしょう」
国師はしばらく沈黙してから言った。
「会すや」
「会せず」
「それがしに耽源(たんげん)という弟子がおります。その者に問うて下さい」。そう言って国師は亡くなった。
皇帝はお墓の話だと思ったようであるが、国師のいう無縫塔は墓ではなく「真実の自己」を意味していた。「心の中に宇宙大の塔を建立してくだされ」と国師は遺言したのであり、沈黙することで塔の姿をお見せしたが、皇帝はそれを見ることができなかったのである。
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