師子尊者の話

西天二十四祖の師子(しし)尊者は、中インドの婆羅門(バラモン)の家に生まれ、二十三祖の鶴勒那(かくろくな)尊者の法を嗣いだ。その後、諸方を遊行してカシミール国に至り、その地で多くの人々を教え導いたので遠近に名が知れ渡った。

尊者が法嗣となるべき人物を探していたとき、一人の子供を連れた長者に会った。長者が言った。「この子は斯多(した)と名づく。左手を握りしめて生まれ、成長した今も手を開くこと能わず。願わくは尊者、その宿因を示さんことを」

尊者はその子をじっと観察し、それからその握りしめた手を撫でて言った。「我れに珠を還すべし」。すると童子は生まれて初めて左手を開き、握りしめていた珠を尊者に奉った。人々が驚きの声をあげると、尊者が言った。「我れ前世に僧たりしとき一人の童子あり。その婆舎(ばしゃ)という名の童子に、西海に行ったときに供養された珠を預けた。今この童子が我れに珠を還すのはそのためである」

長者はその子を出家させるべく尊者に預け、尊者は前縁によりその童子に婆舎斯多(ばしゃした)の名を与え、戒を授けると言った。「我が師に予言あり。我れは久しからずして難に遭うべし。よって如来の正法眼蔵を今、汝に転付す。汝まさにこれを護持し、あまねく来る者を潤すべし」。そして偈を説いて言った。

「正しく知見を説くとき

 知と見と倶にこれ心

 当に心即ち知見ならば

 知見は今に即す」

尊者は偈を説き終わると、大衣(だいえ。三衣の中の一番大きな衣)を密かに婆舎斯多に付し、他国へ行って教化するように命じた。こうして婆舎斯多は南天竺へ行き、難の避けられぬことを知る尊者はカシミール国に留まった。

そのときその国に様々な幻法を学んだ二人の外道がいた。その二人は乱を起こすことを計画し、失敗したら仏子に罪を着せようと偽りの仏衣をまとい、ひそかに王宮に潜入し悪事をおこなった。しかし災いは自らに還りことは失敗した。ところが偽りの仏衣に欺かれた王は怒って言った。「我れ心を仏法僧の三宝に帰依するに、何ゆえこのような害を及ぼすのか」

王は命じてすぐに寺を破壊し、僧を追放し、そして自ら剣を取り尊者のところに来て言った。

「師、存在の空なることを得たるや否や」

「空なることを得たり」

「生死を離れたるや否や」

「すでに生死を離れたり」

「すでに生死を離るれば、我れに頭を施すべし」

「身は我が有に非ず。何ぞ頭を惜しまん」

王はたちまち剣を振るって尊者の首を断った。すると白乳の湧くこと高さ数尺におよび、同時に王の右肘も地に落ち、七日後に王は亡くなった。太子の光首が嘆いて言った。「我が父、何ゆえにこの禍を被る」。ときに象白山に、因果の理を深く明らめた仙人がおり、太子のために宿因を説き明かした。それによって太子は疑惑を解き、尊者のために塔を建てた。魏の斉王の二〇年(西暦二五八年)に当たる。

出典「景徳伝灯録巻第二。第二十四祖師子比丘」

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