婆舎斯多尊者の話

西天第二十五祖の婆舎斯多(ばしゃした)尊者は、カシミール国の婆羅門の家の生まれ、父の名は寂行、母は常安楽、母は神剣を得る夢を見て懐妊し、尊者は生まれたときから左手を握りしめて開かなかった。そしてそのことの宿縁は二十四祖の師子尊者に逢ったとき明らかになった(宿縁のことは師子尊者の項にある)。

師子尊者から嗣法ののち、婆舎斯多尊者は南印度を目ざして出発し、そして中印度のある国を通過したとき、その国の迦勝という王が礼を尽くして尊者を供養した。そのためそれまで王に重く用いられていた無我尊という外道が、それをねたんで尊者に論議を仕掛けたが、問答往復すること五九回、無我尊はついにうち負かされ口をふさいで信伏した。

そのとき尊者は忽然として北に向かって合掌し、長く嘆き声をあげた。「我が師、師子尊者、今日難に遇う。ためにかくの如く嘆く」

そして王を辞してさらに南へと向かい、ひそかに南印度の山谷に隠れた。ときに彼の国に天徳という名の王がおり、尊者を迎えて供養した。王に二子あって、一は凶暴にして力に満ちあふれ、一は柔和にして長く病に苦しんでいた。尊者はこの二人の過去世の因縁を説き明かし、それにより王は疑いを解決することができた。

ところがその国に一人の呪術師がいた。彼は尊者の道を忌み嫌ってひそかに食べ物に毒を入れ、尊者はそのことを知りながらそれを食べ、難は呪術師が受けた。そのため呪術師は尊者の弟子になって出家し具足戒を受けた。

後に太子の得勝が王位につくと、新王は外道を信じて尊者に難を致し、もう一人の子の不如密多(ふにょみった)は新王を諫めたことで囚われの身になった。そしてある日、にわかに王が尊者に問うて言った。

「我が国は古来いつわりを絶す。師の伝うる所はこれ何の宗ぞ」

「王の国は昔よりこのかた実に邪法なし。我が得し法はこれ仏宗なり」

「仏滅よりすでに千二百年になる。師、誰にか法を得たる」

「飲光大士(おんこうだいし。摩訶迦葉尊者)、親しく仏より仏心印を受け、展転して二十四世の師子尊者に至る。我れは彼の尊者より得たる」

「予が聞くに獅子比丘は刑死を免ること能わず。何ぞよく後人に法を伝えん」

「我が師、難いまだ起こらざりしとき、密かに我れに信衣と法偈を授けて師承をあらわす」

「その衣、いずこにか在る」

尊者は袋の中から衣を出して示し、王は命じてこれを火に投じたが、五色の色も鮮やかに、薪が尽きても元のままであった。王はそれを見て尊者が真の法嗣であることを知り、疑ったことを悔い、礼をもって尊者をもてなし、太子の不如密多も許した。自由の身になった不如密多が出家を求めると、尊者が彼にたずねた。

「汝、出家して、何事をか為す」

「我れ出家するも別事を為さず」

「何事をか為さざる」

「俗事を為さず」

「まさに何事をか為すべき」

「まさに仏事を為すべし」

「太子の智恵は天与のものなり。必ずや諸聖、道を示さん」

こうして出家を許し、六年間仕えさせたのち王宮で具足戒を授け、得度のときには大地が震動するなど多くの霊異があった。尊者が不如密多に言った。

「我れはすでに老い衰えたり。長く留まることなし。汝まさによく正法眼蔵を護り、あまねく衆生を救うべし。我が偈を聴け。

聖人は知見を説くも

境に当たって是非なし

我れ今、真性を悟る

道無くまた理も無し」

不如密多は偈を聞くと言った。「法衣をよろしく伝授すべし」

「この衣は難に遭ったとき伝法を証明するべきもの。汝が身には難なし、なんぞこの衣を要せん。十方に教えを広めば人おのずから信を向けん」

不如密多が礼をなして退くと、尊者は神通変化を現じ、三昧は火と化して尊者の身を焚き、高さ一尺ばかりの舎利が残った。得勝王は塔を作り集めた舎利を秘した。東晋明帝の太寧三年(西暦三二五年)に当たる。

出典「景徳伝灯録巻第二。第二十五祖婆舎斯多」

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