不如密多尊者

西天二十八祖の第二十六祖、不如密多尊者(ふにょみったそんじゃ)は、南インドの得勝王の太子として生まれたが、王位を捨てて出家し、二十五祖の婆舎斯多(ばしゃした)尊者の法を嗣ぐと東インドへ行った。

東インドの堅固という名の王は外道の長爪梵志(ちょうそうぼんし)を師としていた。尊者がまさにその国に至らんとするとき、王と梵志はともに白気(はくき)が上下に貫くのを見た。王が言った。「これ何の奇瑞ぞ」。ところが梵志は尊者が来ることを知っていたので、王の心が尊者にうつることを恐れてその言葉を否定した。「これは魔の来る兆しなり。どうして奇瑞であろうか」

そして対策を練るため仲間を集めて言った。「不如密多、まさに都城に入らんとす。誰かよくこれを挫く者ありや」。すると弟子たちが言った。「我らおのおの呪術あり。もって天地をも動かし、水火にも入れるべし。何をかわずらう事あらん」

都城に至った尊者は、宮殿に黒気があるのを見てつぶやいた。「小難なるのみ」。そして王に会いに行った。王がたずねた。

「師、来たりて何をか為す」

「まさに衆生を救わんとす」

「何の法をもって救う」

「おのおのその良きをもってこれを救わん」

これを聞いた梵志らは怒りにたえず、幻術をもって尊者の頭上に大山を出現させたが、尊者がこれを指さすと山はたちまち彼らの上に移動した。そのため梵志らは驚き畏れて尊者の前に身を投げ出し、かれらの愚かさを哀れんだ尊者が再び指さすと山はたちどころに消滅した。尊者はそれから法を説き、真実の教えに王を導いた。

尊者が王に言った。「この国に聖人あり。まさに我が法を嗣ぐべし」。はたしてこの国に二十歳ばかりになる婆羅門の子がいた。幼くして父母を失い、名前すら不明で自ら瓔珞(ようらく)と名乗り、礼拝しながら村里を遊行して日を過ごすこと常不軽(じょうふぎょう)菩薩の如くであり、そのため瓔珞童子と呼ばれていた。

一日、尊者と王が車に同乗して出かけると、瓔珞童子が地に頭をつけて礼拝した。尊者が言った。「汝、昔のことを想い出したか」

「我れ、はるかな過去を振り返るに、師と同じところに居れり。師は摩訶般若を行じ、我れは甚深なる経を転ず。今日のことはけだし昔因に契えり」

尊者が王に言った。「この童子は大勢至菩薩にほかならない。この聖者の後にまた二人の聖者が出る。一人は南印度を教化し、一人は中国に縁がある」。そして尊者は遠い過去からの因縁により童子に般若多羅(はんにゃたら)の名を授け、正法眼蔵を付し終わると、偈を説いて言った。

「真性は心地の蔵なり。

 頭(はじめ)もなくまた尾(おわり)もなし。

 縁に応じて物を化す。

 方便を呼んで智となす」

こうして法を付し終わると、尊者は王に別れを告げて言った。「我が化縁すでに終われり。まさに寂滅に帰すべし。願わくは王、最上乗において外護を忘るることなかれ」。そして本座へ還って結跏趺坐して逝き、火と化して自らを焼いた。王は残された舎利を集めて塔に収めた。東晋孝武帝の太元十三年に当たる。

出典「景徳伝灯録巻二。第二十六祖不如密多」

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