ベトナムの話

平成二一年の八月から九月にかけて、南伝仏教と北伝仏教が出会った国ベトナムへ行ってきた。この国は、正式国名をベトナム社会主義共和国といい、国土の広さは日本の九割ほど、人口は約八五二〇万人、政体は社会主義共和国という国である。

インドシナ半島の東岸に長く延びるこの国の国土は、逆立ちした竜と形容されており、国土の四分の三は山岳地帯である。そのため人口の多くは、首都ハノイを中心とする北部、フエ市やダナン市を中心とする中部、最大都市ホーチミンを中心とする南部、の三つの平野地帯に集中している。また九竜(クーロン)とも呼ばれるインドシナ半島最大のメコン川が国の南部で海に注いでおり、その河口の湿地帯メコンデルタは大水田地帯になっている。

ベトナムは海のシルクロードと呼ばれる中国とインドを結ぶ海上交通の要衝に位置しているため、両国から多くの影響を受けてきた。とくに千年以上支配されたことのある中国から受けた影響は大きく、公文書に漢文が使われていたこともあった。現在の公用語はベトナム語であるが、独自の文字を持っていないので表記にはローマ字が使われている。なおベトナム語には中国語の四声(しせい)に似た六声という声調がある。

現地ガイドに「この国が抱えるいちばんの問題は何か」と質問をしたら、「汚職だ」という答えが返ってきた。共産党独裁の国なので社会の隅々にまで汚職がはびこっているというのである。またこの国では共産党員でないと社会的地位を得るのは難しいともいう。もちろん誰もが党員になれるわけではなく、旧南ベトナム政府に関係していた人や、いい仕事についていない人はなれず、党員の割合は国民の四分の一程度だという。

古都フエの旧王宮を観光していたとき、そのガイドの身に災難がふりかかった。ガイドの身分証明書を首に掛けていないという規則違反を役人にとがめられ、五千円ばかり罰金を取られたというのである。ガイドの免許は毎年更新することになっており、罰金という賄賂を渡さないと更新ができないというのである。

こうしたことが日常的に行われているのは、役人の給料だけでは絶対に食べていけないのが原因だとガイドは言っていたが、豊かになった中国でも汚職がはびこっているのだから、本当の原因は独裁国家ということにあるのだろう。五千円はベトナムでは大金なので、同行者からチップを集めて渡したが、ガイドのしょげ方は哀れであった。

この国のオートバイに乗った女性は、みな帽子とサングラスと大きなマスクで顔を隠していた。この月光仮面のような姿は日焼け対策ということで、ベトナムでは色の白いことが美女の第一条件だという。

ハノイの下町を歩いていたとき背中に異常を感じて振り向くと、背の高いやせた男が後ろを歩いていた。こちらと視線を合わせないように横を向いている。背負っていた荷物を調べると一ヵ所開けられていた。貴重品は背中に密着するように入れているから問題はなかったが、この国の旅行にはこうした問題もある。

     
ベトナムの仏教

この国は社会主義の国であるが宗教も広まっていて、信徒数の割合は仏教徒八〇パーセント、カトリック教徒九パーセント、そしてその他、とされるから、この国は仏教国の仲間なのかもしれない。なお少数のヒンズー教徒も住んでいてヒンズー教の遺跡もある。

ベトナムは中国経由の北伝仏教(大乗仏教)と、東南アジア経由の南伝仏教(上座部仏教)が出合った場所である。先に伝わったのは上座部仏教とされるが、今は中国経由の仏教が大半を占めていて、上座部仏教を信奉しているのは南部のカンボジア系の人だけだという。

ネットで調べてみたら、一九九四年のベトナムの寺院数は一万四三五三、そのうち中国系の仏教寺院は一万三三一二、上座部系は三四二、僧の数は全体で二万六二六八人とある。なお古い寺は首都が置かれてきたハノイ周辺に集中しているが、寺院数は南部の方がはるかに多く今も増え続けている。

中国系の仏教はすべて禅宗に属し、この国には三つの禅の流れが伝わったとされる。そしてそれらはすべて念仏禅である。同じ中国系仏教なので仏像や寺院建築は日本とよく似ているが、香堂というこの国独自のお堂があるのはここが沈香の産地だからであろう。寺の本尊は釈迦牟尼仏、阿弥陀仏、弥勒仏などであり、観音菩薩や、弥勒仏の化身とされる布袋さま、死後の裁判官の十王像、なども寺の中に祀られている。十王の中で日本人になじみがあるのはエンマ大王ぐらいであるが、この国では十王全員が一列に並んでにらみをきかせている。

経典は漢訳経典が使用されていて、それも般若心経、法華経、金剛経、阿弥陀経、遺教経、大悲呪といった日本でも読まれているものばかりである。そのため今でも僧は漢字が読めるという。

今回の旅行では寺は数ヵ寺しか見学しなかったし、この国の仏教を紹介する詳しい本も手に入らなかった。だからこれはわずかばかりの見聞に基づく感想に過ぎないが、この国の仏教寺院は大した活動をしていないように見えた。これは共産党独裁の国では仕方のないことかもしれない。なおこの国では人が亡くなるとまず土葬にし、三年後に遺骨を掘り出して墓に納骨するということをしている。

これはネットで調べた情報であるが、ベトナムでは降誕会と成道会と盂蘭盆会の行事が重視されていて、旧暦の七月十五日におこなう盂蘭盆会のときには、紙で作ったたくさんのお供え物をし、最後の日にそれらを焚いてご先祖さまに送る、ということをしているという。だからやり方に違いはあっても盂蘭盆会の主旨は日本と同じと考えていいようである。そのお供え物の中にはオートバイや車、さらにはプール付きの家もあるという。

     
ベトナムの歴史

ベトナムは古い歴史をもつ国であるが、歴史的遺産の多くがベトナム戦争で破壊されてしまったので、見るべきものは少ない。中国と隣接するこの国の歴史は、十五世紀までは中国に占領されては独立を回復するということの繰り返しであった。しかもこの国は第二次大戦後にも四回も戦争を経験している。この国を理解するにはそうした歴史を知る必要がある。

紀元前一一一年、中国(漢)の支配下に入り、中国による支配はそれから西暦九三九年まで千五十年つづいた。ただしこれはハノイを中心とするベトナム北部に関してであり、南部にはチャンパ国や扶南(ふなん)国という別の国が存在していた。この当時はまだベトナム国の形はできていなかったのである。

十三世紀に中国(元)の侵入を三回受けたが、このときはゲリラ戦によって撃退した。この頃からゲリラ戦を得意にしていたのであろう。

一四一四年から一四二七年までまた中国(明)の支配下に入った。

一八八二年、ベトナム全土がフランスの植民地となり、日本で仏印(ふついん)と呼ぶフランス領インドシナの一部に組みこまれた。フランスはベトナム、ラオス、カンボジアの三国をまとめて統治したのであった。

一九四〇年、第二次大戦でフランスがドイツに降伏すると、それに乗じて日本軍がベトナムに進駐し、ベトナムは二重支配を受けることになった。日本軍がフランス軍を追い出さなかったのは、仏印のフランス軍がビシー政権に属していたからであり、ビシー政権は日本の同盟国ドイツがフランスに作った政権である。

一九四五年三月、ドイツの敗戦が決定的になると、フランスの動きを警戒した日本は仏印のフランス軍を武装解除し、バオ・ダイ皇帝を元首とするベトナム帝国を樹立した。

一九四五年八月十五日、日本が降伏するとその「権力の真空」に乗じて共産党が「八月革命」で支配を確立、同年九月二日にホーチミンがハノイのバーデン広場でベトナム民主共和国(北ベトナム)の独立を宣言、初代国家主席になった。この日がベトナムの独立記念日になっている。

これに対してベトナムの再支配をもくろむフランスは、南ベトナムにコーチシナ自治共和国(首都サイゴン。現ホーチミン市)を建国した。そのため一九四六年十二月、フランス軍とベトナム独立同盟(ベトミン)軍との間で戦闘が開始された(第一次インドシナ戦争)。近代装備のフランス軍の攻撃により、北ベトナム政府とベトミン司令部はハノイを撤退させられたが、北部山岳地帯に移動してゲリラ戦による徹底抗戦をおこなったので戦闘は長期化した。

一九五四年三月、ディエンビエンフーで大敗したことでフランス軍は南部へ撤退、北緯十七度線が軍事境界線になった。そしてフランスがベトナムの再植民地化をあきらめたことで、ベトナム統一のための総選挙を実施する協定が調印された。ところがここにアメリカが出てきた。

  
ベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)

ベトナムはアメリカとの戦争に勝利するという、日本ができなかったことを成し遂げた国である。

第二次大戦終了後における最大の戦争、ベトナム戦争の犠牲者数は、一九八七年にアメリカの統計機関が出した数字によると、米軍五万七七〇二、南ベトナム軍十八万五五二八、南ベトナム民間人四一万五千、韓国軍四四〇七、解放軍九二万四千、北ベトナム民間人三万三千、中国人民解放軍一一一九、となっている。これらを合計すると一六二万余になるが、実際にはこれに含まれない多数の死者が存在しており、ベトナムにおける直接の死者は二五〇万人、ラオスやカンボジアでの死者と間接的な死者を加えると総数は四百万人に達するといわれる。

ベトナム戦争の原因としては以下のことが挙げられる。

アメリカが南ベトナムに親米政権を樹立したこと。

その南ベトナム政府が無能だったこと。

宗教対立と階級対立が存在したこと。南ベトナムでは資産階級や指導者階級はカトリック教徒、一般国民は仏教徒という社会体制になっていた。つまりカトリック教徒中心の政府が、多数派の仏教徒を弾圧するという図式になっていたのであり、その原因はこの国がフランスの植民地だったことにある。

最後に北ベトナム側に祖国統一をめざす断固たる意思が存在したこと。最近ではこれがベトナム戦争の真の原因だとする説が有力。北ベトナムは南北統一の意思を最後まで隠していたといわれ、それは朝鮮戦争を研究して立てた戦略であったという。朝鮮戦争の結果、朝鮮半島は南北に分断されて今日に至っている。そのためそうしたことにならないように、北ベトナムはできるだけ自分たちが表に出ないように行動し、この戦争を「南ベトナム政府軍と、南ベトナムを圧政から開放するために南ベトナムで結成された解放民族戦線との戦い」のように見せかけたという。

一方、アメリカがベトナムに介入したのは共産主義の拡大を封じるためであった。ベトナムが共産化すれば、インドシナ半島全体さらには日本を含めたアジア全体が共産化してソ連の側につく、というドミノ理論が実現することを恐れたのである。そのためアメリカは南ベトナムに一九五五年、ゴ・ディン・ジェムを大統領とするベトナム共和国(首都サイゴン)を樹立した。

これに対して、一九六〇年、南ベトナム解放民族戦線が結成され、南ベトナム政府軍との間で戦闘が始まった。そしてアメリカが政府軍に肩入れしたことで、米軍と解放軍(南ベトナム解放民族戦線と北ベトナム軍)との戦争へと発展、最大時の一九六九年一月には五四万九千人の米軍がベトナムに展開した。

     
アメリカの敗退

時は東西冷戦のまっただ中だったので、米軍と南ベトナム政府軍を、日本、イギリス、西ドイツ、韓国、その他の資本主義国が支援し、解放軍側を、中国、ソ連、キューバ、東ドイツなどの社会主義国が支援した。日本、タイ、フィリピンの米軍基地も利用され、特に沖縄の基地は不可欠の役割を果たした。

アメリカは当初南ベトナムの国作りを楽観視し、十八ヵ月で平定できると見ていたが、泥沼化した戦争が終結したのは米軍参戦の十五年後であり、しかもアメリカは敗退した。豊かな超大国アメリカは、一五〇〇億ドルの戦費を使い、米軍と南ベトナム政府軍を合わせた兵力は解放軍の三倍といわれながらも、小さくて貧しい解放軍に敗れた。その理由としては以下のことが挙げられる。

アメリカが擁立した政権が民衆の支持を得られなかったこと。

アメリカの近代兵器の力が、ベトナム人の外国支配に反発する力と民族独立を希求する力に及ばなかったこと。

世界中からアメリカに非難が集中したこと。戦争には善玉も悪玉もないと思うが、この戦争ではアメリカは悪玉と見られていた。

こうしたことが挙げられるが、他国を自分の思い通りにしようとしたのがそもそもの間違いであり、ベトナムが共産主義国になるかならないかを決めるのは、ベトナム国民であってアメリカではないのである。

一九六九年七月、アメリカ軍が撤退開始、一九七三年三月に完了、ニクソン大統領がベトナム戦争の終結を宣言した。

一九七五年三月一日、米軍の支援を失った南ベトナム政府軍に解放軍が総攻撃を開始。四月三〇日、南ベトナム最後の大統領ズオン・バン・ミン将軍が無条件降伏してベトナム戦争が終結。そして一九七六年、南北ベトナムが統一されベトナム社会主義共和国が樹立された。これは白人によるアジア植民地支配の終わりを意味していた。

ドミノ理論によれば、ベトナムが共産化されれば周囲の国々もそうなるはずであったが、そうはならなかった。果たしてアメリカは戦う必要があったのだろうか。ベトナムは国土の荒廃と数百万の人命と引き替えに、アメリカの追い出しと祖国の統一に成功した。そのことは立派であるが、その末に手に入れたのは汚職がはびこる共産党独裁国家であった。

米軍がベトナム戦争で使用した弾薬量は一一二七万トンといわれ、これはアメリカが第二次大戦で使用した量の二倍弱にあたる。そして沖縄戦における不発弾の割合は〇・五パーセントとされているので、それから推計すると大量の不発弾がベトナムの国土に埋まっていることになる。不発弾というと大型の爆弾を思い浮かべるが、米軍は野球のボール大のボール爆弾を無数にばらまいたので、その小さな不発弾も多くの人を殺傷し続けているのである。

また米軍とサイゴン政府軍は、北ベトナムからの補給路であるホーチミン・ルートや解放軍陣地を裸にするため、大量の枯れ葉剤を散布した。散布面積は日本の四国に匹敵し、散布量は終戦までに八千万リットルに達したといわれ、しかもその枯れ葉剤には残留性の強い猛毒のダイオキシンが含まれていた。そのため戦争を知らない第二、第三世代にも多くの障害が出ているが、アメリカ政府はこうしたことに関する補償を全くおこなっていない。

     
ベトナム・カンボジア戦争

一九七八年十二月、完全装備のベトナム兵十二万人がカンボジアへ侵攻し、一年後の兵力は二〇万人に達した。わずか三年半前にベトナム戦争を終結したばかりのベトナムがカンボジアに出兵した理由は、

カンボジアから中国の影響を排除する。

ベトナム系カンボジア人を保護する。

国境問題を解決する。

などであったというが、要するにベトナムはカンボジアを意のままにしたかったのである。そしてもう一つの理由としては、ベトナム戦争で捕獲した豊富なアメリカ製兵器と豊富な実戦経験を持つ軍事大国に、ベトナムが成長していたことが挙げられる。つまり手に入れた危険なおもちゃを使ってみたかったということであり、あるいはこれが一番大きな理由だったのかもしれない。そのためベトナムは圧倒的に有利と見られていたし、自らもそう考えていた。ところが泥沼の戦争にはまりこむというアメリカが犯した失敗を、今度はベトナムがカンボジアでくり返した。分不相応の力を持つということは危険なことなのである。

一九八九年十一月、ベトナム軍は十年間で五万五千人の戦死者を出した末に、目的を遂げることなく撤退した。もちろんカンボジア側の損害はさらに大きかったはずであるが、結局ベトナムがこの戦争で得たものは国際的な非難と孤立、そして経済破綻であった。

どんなに大きな軍事力を持っていても、力で相手を屈服させることは難しい。力で従わせようとすれば、相手は憎しみを燃え上がらせ、石にかじりついてでも抵抗する。だから軍事力でもめ事を解決しようとするのは、膨大な費用はかかっても得るものは少なく、割に合う方法ではないのである。

一九九一年、国力を消耗し尽くしたベトナムに追い打ちをかけるように、最大の援助国ソ連邦が崩壊した。

     
中越戦争

中国はベトナム戦争ではベトナムを支援していたが、一九七〇年ごろから両国の関係が悪化し始めた。その理由としては、まずベトナムとソ連の接近が挙げられる。これはソ連と対立していた中国にとって許せないことであった。ところがその中国はアメリカに接近していた。ベトナム戦争の最中に敵国アメリカに接近することはベトナムにとって許せないことであった。

次にカンボジア問題があった。中国はポルポト政権を支援していたが、ベトナムはカンボジアに侵攻してポルポト政権を追い払い、ヘン・サムリン政権を樹立した。そのため両国はするどく対立した。また南沙諸島と西沙諸島における領土紛争があり、さらにベトナム国内の華僑が迫害、追放されるという問題が起こり、その数は二百万人にのぼった。

こうしたことからベトナム戦争が終わった四年後の一九七九年二月十七日、ベトナム側の発表によると六〇万の中国軍がベトナム北部に侵攻し中越戦争が始まった。ところが一ヵ月後の三月十八日、中国軍は占領した四つの町を徹底的に破壊するという愚行をおこなったのち撤退した。ベトナムを懲罰すると称して侵攻し、戦果もなく撤退したのだから、これは中国側の負け戦であり、懲罰されたのは中国側であった。

ベトナム軍はアメリカが残した最新兵器を大量に保有し、士気も高く、戦争にも慣れていた。だから中国がすぐに撤退したのは賢明であった。中国人は「情勢が悪いと気づいたら、できるだけ早く撤退する」という智慧を、そのくり返される戦乱の歴史の中で身につけていたのであり、アメリカも泥沼化する前に撤退するべきだったのである。この戦争のあと、ベトナムは旧ソ連との関係をさらに深め、中国は軍の近代化を進めることになった。

一九八六年十二月、ベトナムは「開放刷新政策ドイモイ」を採択した。この政策の狙いの一つはかっての敵、アメリカ、中国、フランス、日本、などとも恨みを忘れて仲良くしようということであった。「過去を忘れなければ国民が食べていけない」というガイドの言葉が、この政策の目的を端的に表現している。

今度の旅行ではベトナム国内のほとんどの所で米ドルが使用できた。これはアメリカとの結びつきが強くなっている証拠であり、また中国との交流も盛んになっている。そしてその分ベトナム戦争を戦ったときの最大の援助国ロシアの影は薄くなった。ベトナムはロシアよりもアメリカを選んだのである。

     
ホーチミン大統領

ベトナム独立の父、ホーチミン大統領は、小柄な体と温厚な人柄の中に、強靱な意志を秘めた人物であり、彼がいなければベトナムの統一は成らなかったかもしれない。「自由と独立ほど尊いものはない」という彼の言葉は有名であり、彼は死去するまで大統領の地位にあって、北ベトナムを実質的かつ精神的に指導し続けたが、あくまで質素な生活を守り通したので、民衆から神様のように尊敬された。

ホーチミン大統領は一八九〇年の生まれであり、父親は科挙(かきょ。高級官吏登用試験)に合格した役人だったというから裕福な家の生まれだったようである。

一九一一年、二一歳のとき定期航路の雑用係になってフランスに渡り、共産党員になって政治活動を開始した。

一九四一年、国外での三〇年に及ぶ流浪の政治活動ののち帰国、インドシナで初めて共産党を設立、そしてベトナム独立同盟ベトミンの代表となり、一九五四年には北ベトナム大統領に就任、第一次インドシナ戦争とベトナム戦争を指導した。

一九六九年に死去した彼の遺体は、ハノイにある総大理石作りのホーチミン廟に安置されており、毎日多くの人が参拝に訪れている。これはモスクワの赤の広場のレーニン、北京の天安門広場の毛沢東と同じ仕掛けである。廟の前のバーデン広場は、彼がベトナム民主共和国の独立宣言を読み上げた場所であり、木造高床式の彼の家もその近くに残っている。

日本人は偉人の徳を顕彰するために神社を建てたりするが、それと同様のことがベトナム全土でホーチミン大統領を対象におこなわれているという。また紙幣の全てに彼の肖像が印刷されている。遺言でそうしたことをしないように言い残したというが、遺言は守られず死後も祖国のために働かされているのである。

     
枕銭

今回の旅行では枕銭(まくらぜに)のことを調べてみた。枕銭というのは部屋を整えてくれる人のために置くチップのことをいい、これまで私は忘れないかぎり置いていたが、ヨーロッパにそんな習慣はないとか、日本人が始めた悪しき習慣だとかの説を聞いたことから調べてみたのである。

まず今回の旅行の同行者にきいてみたら、ほとんどの人が置いているという返事であった。これは添乗員や現地ガイドが置いた方がいいと言っているのが一番の理由だと思う。私もそうした助言を何度か聞いたことがあるし、今回の添乗員もそれと同じ意見であった。

ところが帰国してからネットで調べてみたら「基本的には不要」という意見が大勢であった。こうした書き込みをする人は、自分で調べたり考えたりしたことのある人だと思うから、これらの意見はかなり信頼できるはずである。欧米人の意見も聞いてみたいものであるが、おそらく欧米人は枕銭を置かないと思う。そもそも枕銭に相当する英語が存在しないのだから、枕銭のことを知らない人も多いのではないかと思う。ということで結論は、枕銭は日本人が初めた悪しき習慣ということである。

ベトナムでは宿代にサービス料が上乗せされていたからチップは基本的に不要である。あるホテルでポーターが荷物を運んできたとき、いかにもチップを貰ってきたとばかりに数枚の一ドル札を見せびらかしていたが、これではサービス料の二度取りである。

参考文献
「地球の歩き方。ベトナム2008〜2009年版」 ダイヤモンド社
「わかりやすいベトナム戦争」 三野正洋 2008年 光人社NF文庫
「ベトナム戦争と平和」 石川文洋 2005年 岩波新書
「ベトナム仏教美術入門」 伊東照司 2005年 雄山閣
「ヴェトナム新時代」 坪井善明 2008年 岩波新書
「科学全書37歴史としてのベトナム戦争」古田元夫 1991年 大月書店
「これならわかるベトナムの歴史」 三橋広夫 2005年 大月書店

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