インドネシアの話

平成二一年二月、世界三大仏教遺跡に数えられるボロブドール遺跡を見学するべくインドネシアへ行ってきた。インドネシアは、正式国名をインドネシア共和国といい、国土の面積は日本の約五倍、人口は中国、インド、米国につぐ世界第四位の約二億三千万人、という国である。国民の六割は、全国土の七パーセントの面積しかないジャワ島に住み、首都ジャカルタもこの島にある。つまりジャワ島がこの国の政治経済の中心である。

インドネシアは二百とも三百五十ともいわれる民族からなる多民族国家であり、その多くはマレー系の民族である。そのため多民族国家の宿命というべき分離独立の紛争地域をいくつも抱えており、それが原因だと思うが二〇〇二年十月にバリ島で、死者二百二名(うち邦人二名)、負傷者三百名以上という爆弾テロ事件が起きた。ただし旅行中、治安が悪いと感じたことはなかった。

この国は一万七千あまりの島からなる世界最大の島嶼国家(とうしょこっか。島は大きな島、嶼は小さな島)でもあり、その緑に輝く熱帯雨林の島々が赤道に沿って五一〇〇キロも連なる国土は、赤道に掛けたエメラルドの首飾りと称されている。

地図を眺めていたとき、そのエメラルドの島々にたくさんの火山が並んでいることに気が付き、その数の多さに驚いた。この国は日本以上の火山国であり火山の数は百三十にのぼる。この国を貫くヒマラヤまで続く地殻の裂け目が、これらの火山を生み出したのであり、そしてこの国を作り上げたのである。

そのためこの国は日本以上の地震国でもあり、二〇〇四年十二月のスマトラ沖地震では、スマトラ島北部で十六万人をこえる死者を出し、しかも大津波がインド洋沿岸の国々に押し寄せたため犠牲者の総数は二十二万六千五百余名に達したのであった。また二〇〇六年五月のジャワ島中部地震でも五千人をこえる死者が出た。

インドネシアは場所によっては年に三回お米が収穫できる稲作主体の農業国である。そして手入れのよく行き届いたこの国の田んぼの景観は、椰子の木さえなければ、半世紀前の日本の田園風景がこんなところに残っていたと懐かしさを感じるほど日本とよく似ていた。

この国を代表する植物はココヤシの木である。大きな実を付けた椰子の木がいたる所に生えているのであるが、ホテルの庭の木には実が一つも付いていないのでその理由をガイドにきくと、落下すると危険なので取り除いている、実の直撃を受けて年間二五人も死んでいるという返事であった。

今回たずねたジャワ島、バリ島、ロンボク島は南半球にある。赤道を越えて旅をしたのは今回が初めてであり、赤道を越えるときには赤道祭りをするとか、赤道通過の証明書をくれるとかの話を聞いたことがあるが、そういうことは何もなかった。

インドネシア人は笑顔の美しい人ばかりであり、しつこく付きまとう押し売りであっても、話しかけると実にいい笑顔を返してくれる。この常夏の楽園にまた来ることがあれば、今度はもっとゆっくり滞在してみたいと思った。

     
インドネシアの宗教

インドネシアは世界でいちばんイスラム教徒の多い国であるが、イスラム教は国教になっておらず、信教の自由も保障されている。

この国には五つの宗教があるとガイドが言っていた。それはイスラム、カトリック、プロテスタント、ヒンズー、そして仏教である。信徒数の割合は、イスラム教徒八八パーセント、キリスト教徒八・八パーセント、ヒンズー教徒二パーセント、仏教徒一パーセントということで、国民の休日はこれら五つの宗教すべてに割り振られており、仏教大祭という仏教関係の移動祝日は二〇〇九年は五月九日となっていた。

この国の宗教の土台になっているのは、太古から受けつがれてきた民族宗教だという。そしてその上に仏教やヒンズー教などのインド的要素が加わり、さらにその上にイスラム教やキリスト教が乗っているという状態なので、すべての宗教に大きな共通点があるという。

とはいえガイドに宗教の違う人と結婚できるのかときいてみたら、最近そういうことも増えているが、そういう場合はたいてい男性側の宗教に女性が改宗することになり、結婚式は男性側だけでおこない、女性は生家の家族から縁切りされる、という答えが返ってきた。

そうした宗教対立が意外なところに現れていた。バリ島のウブド郊外にあるヒンズー教の聖地ティルタ・ウンプル寺院横の丘の上に、初代大統領スカルノの豪華な別荘が建っていたのである。この丘はそれほど高くはないが城壁のような急斜面になっていて、その斜面の上に寺院を見下ろす形で別荘が建っていたのである。その建て方はどう見てもイスラム教徒スカルノによるヒンズー教徒への嫌がらせとしか見えず、ヒンズー教徒のガイドもひどく腹を立てていた。スカルノは独立の父と呼ばれる英雄だが、この別荘を見て彼に対する評価がいっぺんに色あせた。この建物は今は政府の施設になっているというが、人の心を逆なでするこんな建物はさっさと取り壊すべきだと思う。

     
インドネシアの仏教

千数百年前には仏教が栄えていたので、ジャワ島には仏教遺跡がいくつも残っている。その代表が世界遺産の大乗仏教遺跡ボロブドールであり、ジャワ島中部のメラビ火山のふもとにあるこの寺院は、シャイレンドラ王朝によって西暦七六〇年から八五〇年の間に作られたとされるが、記録が残っていないため詳細は不明である。インドネシアのような常夏の国の人はたいてい古い歴史を残していない。季節感のない風土の土地に住んでいると歴史感覚が発達しない、というのがその理由であり、これはインドも同様である。

ボロブドールは十世紀の初めに打ち棄てられたとされるから、仏教はそのころジャワ島から姿を消したのであろう。そしてその後この寺院は密林に覆われ、たび重なる噴火の火山灰に埋もれ、千年ほど忘れ去られたまま眠っていた。眠りから覚めたのは十九世紀はじめのことで、それから数度の修復工事がおこなわれ、さらに一九七三年からユネスコによる十年がかりの大修理がおこなわれた。

生きた仏教はこの国から完全に消滅したと思っていたら、バリ島に仏教寺院が数ヵ寺あるとガイドが教えてくれたので、これはひょっとするとボロブドールを建設した仏教が生き残っているかもしれないと思い、さっそくその一つに案内してもらった。ところがそれは明らかに中国系の寺院で建物も新しかった。仏殿の本尊は釈迦牟尼仏であるが宗派は分からない。そのとき一パーセントの仏教徒がこの国にいるというガイドブックの記述を思い出し、それは中国系の人々のことだと気がついた。

     
バリ・ヒンズー

インドネシアという国名は「インドの島々」を意味している。またオランダの植民地だったときここは東インドと呼ばれていた。そうしたことからも分かるようにこの国は昔からインドと結びつきの強い国であり、そのため仏教やヒンズー教が栄えていたこともあるが、それらはやがてイスラム教にとって代わられ、バリ島だけがヒンズー教の島として残った。バリ島のヒンズー教徒の割合は八五パーセントだという。

ヒンズー教はインド人だけが信仰するインド固有の民族宗教であり、仏教のような世界宗教としての性格は持っていない、と言われたりする。しかしバリ島には今もヒンズー教が根づいているし、カンボジアのアンコールワットはヒンズー教寺院として建てられたのであるから、この説はまちがっていると思う。

ヒンズー教にはカーストという身分制度が付きものなので、バリヒンズーと呼ばれるバリ島のヒンズー教もカースト制度を受けついでいる。バリヒンズーのカースト制度の縛りは本家のインドほどには厳しくないというが、それでもカーストの違う人と結婚できるのかという問いには、駆け落ちしかないというのが答えであった。

バリヒンズーの中には、シバ神とブッダは同じであるから自分たちはヒンズー教徒でもあるし仏教徒でもある、という宗旨の人もいるという。仏教はそうした形でヒンズー教の中に残っているらしい。

バリ島では民家の庭や玄関先にも大小のほこらがたくさん建っている。そしてそれらの中でいちばん重視されているのが祖霊を祀るほこらだという。バリヒンズーの基本は祖霊崇拝であり、日本のお盆のような行事もあるというから、バリヒンズーと日本の仏教には共通点があると感じた。

バリヒンズーの特色のひとつは神像を祀らないことである。ヒンズー寺院の神殿にも神像は祀られていないというし、民家の入口などに立つほこらにも神像は見あたらず、神さまが坐るべきところは空席になっている。これはインドのヒンズー教では考えられないことであり、この神像不在のほこらを朝の散歩で初めて見たときは不思議でしかたがなかった。しかし考えてみれば日本の神社もたいていは神像不在なのであり、神さまが降臨する場所を提供しているだけなのである。この神像不在にはこの国でいちばん多数派のイスラム教の影響があるかもしれない。イスラム教は偶像崇拝を極端に嫌うからである。

バリ島では人が亡くなると火葬にして遺骨は海へ流す。ところが葬儀はバリヒンズー最大の宗教行事になっていて、バリ島観光の見ものの一つとされているほど盛大におこなうためお金がかかる。そのためいったん土葬にし、お金ができてから遺骨を掘り出して正式に葬儀をする、ということもおこなわれているという。

     
南十字星

赤道直下に位置するインドネシアには日本のような四季の移ろいはないが、雨季と乾季がある。乾期は五月から十月まで続き、乾燥した涼しい南風が吹く乾期は過ごしやすい季節だという。ところが今回の旅は二月の雨期の最中だったので、蒸し暑い上に毎日のように雨に降られ星空にも恵まれなかった。それでも夜中の三時ごろに一度、天の川の中にまたたく南十字星を見ることができた。

英語でサザンクロスと呼ばれる南十字星は、十字を形成する四つあるいは五つの星の呼び名である。四つの場合は十字架の先端に位置する四つの星、五つの場合はそれに右下にあるえくぼの星を加えて南十字星とする。それらが全天八十八星座の中のいちばん小さな星座、南十字座の中心となる星であり、十字架の下端にあるのがこの星座の主星アクルックスである。

南十字星は二月のバリ島では夜中の二時ごろいちばん高くのぼるが、よく似たニセ十字が近くにあって、こちらの方が先にのぼってくるし、よく目に付くので、初めて探す人はよくまちがう。なにしろ現地ガイドが南十字星として同行者に教えていたのもニセ十字の方だったのである。

天の南極には北極星のような目につく星はない。そのため南半球では南十字星が方向を知る手がかりにされてきた。南十字星の上端の星から、下端のアクルックスに線を引いて延長していくと、二つの星の間隔の四倍半のところに天の南極がある。つまり南極のある方向が南である。

南半球にあるオーストラリア、ニュージーランド、西サモア、パプアニューギニア、ミクロネシア連邦、ソロモン諸島、などの国旗には南十字星が描かれている。ところが面白いことに、えくぼの付いた五つ星の国旗と、えくぼの付かない四つ星の国旗がある。

南十字星は本州からは見えないが、沖縄では十二月から六月まで見ることができ、観望に適しているのは午後八時ごろ南中(なんちゅう。いちばん高くのぼること)する五月ごろである。なお白鳥座の中心にある大きな十字を北十字星と呼ぶこともある。北十字星はきれいな十字架の形をしていて十字のまん中にも星が入っているのでよく目に付く。この星座は日本では、初秋のころだと午後八時ごろに南中する。

     
インドネシア小史

インドネシアが今のような島国になったのは、一万年前に海水面が上昇してからのことで、それ以前は氷河期による海水面の低下のため島々は陸続きになっていた。

紀元前二千年ごろ、マレー系や中国西南地方の民族が島づたいにやって来て定住、水田による稲作を伝えた。

紀元前一世紀ごろ、インド洋を渡ってくるインド商人の影響で、インド文化を取り入れた独自の文化が発展し、五世紀ごろから各地に王国が建国され、インドと中国をつなぐ貿易の中継点として栄えた。

西暦四一一年、中国僧の法顕(ほっけん)三蔵がインドからの帰路この地に五ヵ月間滞在した。滞在したのはジャワ島かスマトラ島とされるが場所は特定されていない。「この国は外道やバラモン教が盛んで仏法は言うに足りない」と法顕伝にある。

七世紀から十一世紀にかけて、スマトラ島南部のパレンバンを本拠とする仏教王朝スリビジャヤ王国がマラッカ海峡を制圧。この王国に中国僧の義浄(ぎじょう)三蔵が、インドへの往路の六七一年に半年間、帰路に六八七年から七年間滞在した。長期滞在して学ぶに足る仏教がそのときは存在したのであろう。

八世紀前半、ジャワ島で仏教王朝シャイレンドラ朝とヒンズー王朝マタラム朝が建国され、シャイレンドラ朝が八世紀末から九世紀の初めにボロブドールを建設。この王朝はカンボジアやベトナム南部のチャンパ王国まで遠征した。一方のマタラム朝は十世紀初めごろまで存続し、プランバナン寺院群という壮大なヒンズー寺院を建設した。世界遺産になっているこの寺院の遺跡も今回見学した。

一〇二五年、ジャワ島が南インドのチョーラ朝の遠征を受けた。

十三世紀、元の皇帝フビライがジャワ島に大軍を派遣してきたが、大きな損害を出しながらも撃退した。

十一世紀ごろからイスラム商人がこの地に往来するようになり、十三世紀末ごろからスマトラ島北部でイスラムの受容がはじまった。

十五世紀末にスマトラ西端のアチェ王国がイスラム化し、交易の中心地として発展。十六世紀前半にはマラッカ海峡に面するスマトラ島東岸のほとんどの港町がイスラム化。ジャワ島でも十五世紀末にドゥマック王国がイスラム国家となり、やがてジャワ島全域にイスラム教が浸透。そのためヒンズー教徒はバリ島に追いつめられていった。

十六世紀になると香辛料を求めてポルトガル、イギリス、オランダが相次いで来航。十七世紀にはバタビア(ジャカルタ)に本拠地を置くオランダ東インド会社の覇権が確立。一七九九年、東インド会社が解散し東インドはオランダ本国政府の統治下に入った。

二〇世紀初頭、ポルトガル領東チモールを除く東インド諸島のすべてがオランダ領となり、現在のインドネシアの国土が形成された。つまりインドネシアという国の形はオランダが作ったのである。

やはり二〇世紀初頭、オランダによる過酷な植民地支配のもとでインドネシア人としての民族意識がめばえ始め、一九二〇年代にはインドネシア共産党が植民地政府と鋭く対立した。民族主義運動が最高潮を迎えたのは、一九二七年にスカルノがインドネシア国民党を結成してからであるが、共産党、スカルノ、ハッタ、などが主導する民族主義運動は弾圧され、運動家たちは逮捕、監禁、拷問という目に遭い、運動は冬の時代をむかえた。

     
日本の支配

インドネシアは資源の豊かな国である。日本が大平洋戦争に足を踏み入れたのは、インドネシアの豊富な資源を獲得することが第一目的であったといわれ、とくに日本はアルミと石油が欲しかった。そのため日本軍は開戦後すぐインドネシアの占領を目ざした。

一九四二年(昭和十七年)一月、インドネシアでの戦闘は落下傘部隊による奇襲作戦で始まった。まずスラウェシ(セレベス)島メナドに降下して占領、続いてカリマンタン(ボルネオ)島の石油基地バリクパパン占領、つづいてスマトラ島の石油基地パレンバンを占領した。二月にパレンバンを占領したときは日本中がちょうちん行列で祝ったという。

落下傘部隊によるこれらの奇襲作戦は、石油精製工場を無傷で手に入れることを目的としたものであったが、空から舞い降りた日本軍を、インドネシア人は予言にあった救世軍とみなして熱狂的に歓迎して協力、それを見たオランダ軍はこれは勝ち目がないとあっさり降伏したという。そのため占領は短期間に完遂した。ただし日本が占領したのはインドネシアという国ではなく、日本で蘭印(らんいん)と呼んでいたオランダ領東インドというオランダの植民地である。

こうして同年三月にはオランダによる植民地支配が終わり、以後三年半インドネシアは日本の領土として軍政下に置かれ、囚われていたスカルノやハッタは解放された。しかし日本の目的は植民地支配の鎖からインドネシアを解放することではなかった。莫大な戦費を使い自国民の命を犠牲にして、人助けのための戦争をする国など存在しないのである。

インドネシアの占領は果たしたが、日本海軍は海上輸送路を守るだけの戦力を持っていなかった。そのため輸送船団は米潜水艦の攻撃ですぐに壊滅、日本への物資の輸送はすぐにできなくなった。

日本軍は戦局が悪化してくると戦力を増強するため、インドネシア人を募集して高度の軍事教練を施した。そのとき軍事教練を受けた青年たちが後の独立戦争で中心的な役割を果たすことになった。

一九四五(昭和二〇年)年八月十五日、日本がオランダを含む連合国軍に降伏、その二日後の八月十七日、スカルノがインドネシアの独立を宣言したが(この日が独立記念日になっている)、オランダは独立を認めず再植民地化をはかった。そのため独立戦争が起こり、インドネシア軍の足並みは必ずしも揃っていなかったが、オランダの過酷な植民地搾取を体験した人々の戦意は高かった。

この戦争にはインドネシアの独立に共感した元日本兵二千人が加わっていた。そして彼らは多くの戦死者を出しながらも最前線で奮戦したのであった。私が子供のころインドネシアを舞台にした快傑ハリマオという子供向けのテレビ番組があった。その主人公の日本人青年ハリマオは植民地の圧政から人々を救う正義の味方であったが、この話はまったくの作り話でもなかったのである。三橋美智也が歌う主題歌は名曲であった。

インドネシア政府は独立戦争を戦うとともに、外交使節団を、アメリカ、イギリス、オーストラリア、発足したばかりの国際連合、などに派遣してインドネシアの独立を訴えて回り、一九四九年一二月、こうした武力闘争と外交努力の結果、ハーグ円卓会議でオランダから独立の承認を得た。インドネシアの紙幣には独立戦争を戦ったときの功労者の肖像が描かれており、一番高額の十万ルピーの肖像はスカルノとハッタである。

独立はしたがこの国は、多民族、多宗教、多島からなる国土、といった難問を抱える舵取りの難しい国なので、これまで何度も国家分裂の危機に直面してきた。

参考文献
「神々の島バリ。バリ・ヒンドゥーの儀礼と芸能」河野亮仙・中村潔編1994年春秋社
「義浄三蔵、南海寄帰内法伝」宮林昭彦・加藤栄司訳 2004年 法蔵院
「法顕伝・宋雲行記」長沢和俊訳注 1971年 平凡社東洋文庫
「ワールドガイド。バリ島」JTBパブリッシング 2007年
「太平洋戦争・主要戦闘事典」太平洋戦争研究会 2005年 PHP研究所
「もう一度学びたい太平洋戦争」後藤寿一監修 西東社
「アジア・太平洋戦争」吉田裕 2007年 岩波新書
「日本軍勝敗を分けた31の大作戦」後藤一信 平成19年 竹書房
「太平洋戦争戦闘分析」2007年 宝島社 その他

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