向居士の話

二祖大師の法嗣、向居士(こうこじ。しょうこじ)は、南北朝時代の生まれだが生地も生没年も不詳、常に俗をはなれて林野に幽棲(ゆうせい)し、木の実を食べ谷川の水を飲むという生涯を送った人とされ、北斉の天保年間の初めごろ(五五〇年ごろ)、二祖が教化を盛んにしていることを聞くと、手紙を送って好誼を通じ、質問した。

「影は形によって起こり、響きは声を追って来たる。影を弄して形を労するは、形が影の本なることを知らず。声をあげて響きを止めんとするは、声が響きの本なることを知らず。煩悩を除きて涅槃に趣かんとするは、形を去って影を求むるに譬(たと)う。衆生を離れて仏果を求むるは、声を黙して響きを尋ぬるに譬う。故に知る。迷悟は一途にして愚智は別に非ず。

名無きに名おこり、その名によって是非生ず。理無きに理おこり、その理によって争論おこる。これ幻化にして真に非ず。誰か是、誰か非、これ虚妄にして実なし。いずれか空なる、いずれか有なる。まさに得るに得る所なく、失うに失う所なきを知る。未だ拝謁せずして、いささかこの意を申し述ぶ。伏して望むらくは、お答えのあらんことを」

二祖大師は返事を書き送った。

「つぶさに書の意を観るに皆、実なるが如し。幽玄なる真理とつとに異ならず。迷いて宝珠を瓦礫と言うも、豁然(かつねん)としてこれ宝珠なりと自ら悟れば、無明と智慧とは等しくして異なることなし。まさに知るべし。万法すなわち皆、如なることを。二見の徒を憐れんで辞を述べ、筆を下してこの書を作る。身を観れば仏と差別なし。何ぞ彼の無余涅槃を求むることを要せん」

居士は二祖の偈を拝読すると、相見して礼を述べ、密に印可を承(う)けた。

出典「景徳伝灯録巻三。

もどる