モンゴルの話

平成二〇年八月、モンゴル仏教の現状を見るべくモンゴルへ行ってきた。一九九一年にソビエト連邦が崩壊したことで、この国でも人民革命党(共産党)による独裁体制が崩壊し、国名もモンゴル人民共和国からモンゴル国に変わり、そして仏教が息を吹き返したのであった。モンゴルはチベット仏教を信奉する熱心な仏教国であったが、ソ連に隷属する独裁国家になって以来、この国の仏教は弾圧されてきたのであった。

モンゴルは正式国名をモンゴル国(英語ではモンゴリア)といい、日本の約四倍の広さの国土に、約二七〇万人が住むという過疎の国である。しかもそのうちの百万人は首都ウランバートルに住んでいるというから、首都以外はきわめて人口密度の低い国であり、また世界でただ一つ遊牧が基幹産業という国である。だから首都を少し離れると、どこまでも続く草原と、そこに点在する遊牧民のゲル(移動住居)しか見えないという国である。

この国は北はロシア、南は中国という二つの大国に挟まれた小国である。国土は決して狭くはないが人口的には小国であり、そのうえロシアにしても中国にしてもモンゴルに支配された恨みの歴史を持っている。

過去におけるモンゴルと日本の接点は、神風が吹いたことで知られる鎌倉時代の蒙古(もうこ)襲来、昭和十四年五月のノモンハン事件、昭和二〇年八月のモンゴルによる日本への宣戦布告、戦後ソ連に抑留された日本人の一部がモンゴルに送られ、強制労働に従事させられて多くの死者を出したことなどである。このように過去の接点は良からぬことばかりであるが、モンゴルは親日的な国である。日本との関係が良好なのは中国人や韓国人と違って、両国民とも忘れっぽく過去にこだわらない性格だからという説がある。

     
モンゴル帝国

モンゴルは不思議な国である。ジンギスカンの時代にどのくらいの人口があったのかよく分からないが、現在中国領になっている内モンゴルを合わせてもせいぜい二百〜三百万人ぐらいだったのではないかと思う。だとするとモンゴル軍の勢力は多めに見ても五〇万人ぐらいだったと思う。

そんな小さな民族がユーラシア大陸の大半を支配する巨大帝国を築いたのである。中国、ロシア、東欧、チベット、北インド、ペルシア、朝鮮半島、などを支配したモンゴル帝国に比肩しうるのは大英帝国のみであり、しかもモンゴル軍の先鋒はポーランドや、イタリアの東の海アドリア海にまで到達しており、ジンギスカンのあとを継いだオゴタイハーンが病没していなければ、ヨーロッパ全体が占領されていた可能性もあったという。

ならばなぜモンゴルは巨大帝国を築けたのだろうか。この疑問に対しては以下の理由が挙げられる。

モンゴル軍はすべてが騎兵であり、しかも世界最強の騎馬軍団であった。兵士一人が二〇頭の馬を連れていたとされ、そのため馬が疲れるとすぐに乗り替えができたし、馬は食料でもあった。また兵士はすべて騎射の名手であり、彼らの最大の武器は馬上での扱いにすぐれた小型で強力な弓であった。

モンゴル人の特質について、現地ガイドがこんなことを言っていた。たとえウランバートルに住んでいてもモンゴル人で馬に乗れない人は一人もいない、今でもモンゴルの男が熱中するのは競馬と弓と相撲である、と。それに遊牧民族の生活は、毎日が軍隊生活の訓練のようなものなのである。

騎馬の機動力を生かして有利になれば攻めまくり、不利になればたちまち退却し、追撃してくれば元気な馬に乗り替えて疲れた敵にまた襲いかかる、こうした戦い方ができるのは遊牧民族なればこそである。

移動を常とする遊牧民族は、農耕民族と違って土地に対する執着が小さい。彼らが支配するのは家畜であって土地ではない。同様にモンゴル軍は土地よりも人間を支配することを重視し、しかもモンゴル人は遊牧生活で様々な人間と付きあう必要があることから、どんな民族でも仲間に取りこむ柔軟性を身につけていた。また軍人を大切にするモンゴル軍は、降伏した敵の将兵にも敬意を払い、忠誠を誓うなら積極的に味方に編入し厚遇した。

こうしたことがモンゴル軍の強さの秘密であったという。それともう一つの秘密は、民族の力を結集できたことであろう。小さな民族でも力を合わせれば大きな仕事ができる、そのことをモンゴル人は証明してくれたのである。

ところが、それだけの巨大帝国を築いていながら、この国には古いものがまったく残っていないのである。都が置かれていたカラコルム(ハラホリン)にも見るべきものはほとんどなく、あまりに何もないのでそこに物を貯めこまない遊牧民族の潔さを感じたほどであった。ということで遺跡や寺を見る旅としては、今回は期待はずれの旅になってしまった。世界中から集まって来た宝物はどこへ消えたのだろうか。後にモンゴルを支配した中国やソ連に持ち去られたのだろうか。まだ発見されていないジンギスカンの墓の中にはどんな財宝が眠っているのだろうか。

旅行中に大草原の中の道なき道を走っているとき、運転手に何を目印にして走っているのかときいたら、周囲の山や丘を見ながら走っているという返事であった。おそらく昔のモンゴル兵も、地形で現在地を判断して走りまわっていたのであろう。モンゴルやロシアを貫く「草原の道」の正体は、道なき道だったのだとそのとき気がついた。

ここで蛇足を一つ。ジンギスカンは源義経であったという説がある。義経は岩手県の衣川(ころもがわ)で頼朝の軍に討たれたのではなく、北海道から大陸へ渡ってジンギスカンになったというのである。もちろんこれは義経の軍才と、早すぎた死を惜しんで作られた義経伝説のひとつであるが、たしかにこの二人は同じ時代の人であるし、ともに奇襲戦法に長けていたし、北海道には義経に関係する地名が残っている。そのため大正時代には「成吉思汗(ジンギスカン)ハ源義経也」という本が出版されて好評を博したこともあった。

蛇足をもう一つ。五〇年も前の小学一年のとき、テレビで「ジャガーの眼」というジンギスカンの秘宝をめぐる物語をやっていた。私の家にはテレビが無く友達の家で見せてもらったのであるが、ジャガーの眼とか月光仮面はテレビ最初期の懐かしの番組である。とくにジャガーの眼は最終回を見逃したことが今も心残りになっているほど熱中した番組であるし、ジンギスカンとかフビライなどの言葉をこの番組で覚えたこともあって、モンゴルと聞くとどうしてもこの番組のことを思い出してしまうのである。もっともいま考えてみれば、ジンギスカンが日本に財宝を隠しに来るはずはないのであるが。大瀬康一とか近藤圭子などの俳優さんは今どうしているのだろうか。

これらの蛇足に、北海道でヒツジの焼き肉をジンギスカンと呼んでいることなどを考え合わせると、日本人の心にジンギスカンに対する親近感が存在するのは確かであるが、冗談と分かっていても義経伝説をモンゴル人は喜ばないという。世界最大の帝国の基礎を築いたジンギスカンと義経では格が違うと言いたいのであろう。

     
モンゴル小史

モンゴルの歴史の中から日本に関係することを拾ってみた。

一二〇六年、ジンギスカン(チンギスハーン)がモンゴルのハーン(皇帝)となる。これをもってモンゴル国の建国とするが、モンゴル帝国はジンギスカン一代で築いたものではない。

一二七一年、フビライハーンが中国を占領して元を建国、北京に首都を置き広大な帝国を支配した。フビライはジンギスカンから数えて五代目のハーンであり、ジンギスカンからフビライハーンに至るまで軍事的な天才が途切れずに出現したらしい。フビライの治世がモンゴル帝国の最盛期であり、一二七四年と一二八一年には日本にも派兵したがこれは失敗した(これがいわゆる蒙古襲来)。

一三六八年、元の中国支配はそれほど長くは続かず、この年に明(みん)王朝に取って代わられた。明軍が北京にせまるとモンゴル軍はモンゴル高原に引きあげ、カラコルムに北元を建てたが、その後は群雄割拠の内部抗争で弱体化していった。

一六四四年、明が滅び、満州族が建てた中国最後の王朝、清(しん)が中国を支配した。清は一六三四年に内モンゴル、一七五五年には全モンゴルを支配下に入れ、モンゴルは二五〇年間、清に支配された。

一九一一年、辛亥(しんがい)革命で清が倒れると、モンゴルは独立を目ざしてソ連に追随する政策をとり、一九二一年七月、ソ連の援助のもと世界で二番目の社会主義政権を樹立、モンゴル人民共和国として独立した。このとき内モンゴルも同調したが中国にはばまれて独立できず、内モンゴルは今も中国領になっている。

一九三九年(昭和十四年)五月、ノモンハン事件が起きた。戦場になったノモンハンは中国と国境を接するモンゴル最東部にあり、戦いは満州国とモンゴル国の国境守備隊の小ぜり合いから始まったとされ、満州と日本の連合軍と、モンゴルとソ連の連合軍との、本格的な戦争に発展した。

この戦争は第二次大戦直前のできごとであり、そのときソ連のスターリンの眼は欧州を向いていたが、欧州に戦力を集中するためにも背後の日本を徹底的に痛めつけておく必要があると判断したスターリンは、近代装備の機械化部隊を大規模に投入した。そのため日本の第二十三師団は、出動人員五万九千人のうち、戦死七六九六人、戦傷八六四七人、戦病者二三五〇人、行方不明一〇二一人という惨敗を喫した。この戦争が日本で事件と呼ばれているのは負け戦を隠すためであり、モンゴル側ではハルハ川戦争と呼ばれている。この戦争がモンゴルをソ連に近づける決定的な要因になったという。

一九三九年九月十五日、第二次大戦が同年九月一日に勃発したため停戦協定が結ばれ、ノモンハン事件は一応の終結をみた。

一九四一年(昭和十六年)、日ソ中立条約(不可侵条約)が締結された。日本はアメリカと、ソ連はドイツと戦わなければならなかったので、両国とも背後で戦争が起きると具合が悪かったのである。

ところが大平洋戦争での日本の敗戦が決定的になると、ソ連は一方的にこの条約を破棄して日本に宣戦布告、モンゴルもこれに同調した。ソ連が満州や北方四島に攻撃をしかけてきたのは、広島に原爆が投下された二日後の昭和二〇年八月八日のことであり、日本が降伏する七日前であった。

ソ連は日ソ間の条約を一方的に破り、死に体になっていた日本を攻撃してきた。しかも旧満州で捕虜にした軍人や居留民など六〇万人を抑留し、強制労働と飢えと寒さでその一割の六万人を殺害した。これは国際法に違反する戦争犯罪であり、日本が米英中ソに対して受諾したポツダム宣言第九項にも違反する。第九項は武装解除後すみやかに日本兵を故国に送還することを約束している。

しかもロシアはそのとき占領した日本固有の領土である北方領土を、今も占領し続けている。いくら日本人が忘れっぽい民族だといっても、いくら過ちを許すことが大切だといっても、少なくとも北方領土が返還されるまではロシアが行った非道行為を忘れてはならない。

モンゴルは対日宣戦の恩賞として、ソ連が連行した六〇万人の日本人捕虜の一部、一万四千人を与えられ、その日本人捕虜はおもに首都ウランバートルの建設に従事させられた。ウランバートルにはそのとき日本人が作った建造物が今も残っている。二年間の強制労働による死者として、一六八六人が確認されている。

一九七二年、モンゴルと日本が国交を樹立、これは両国間で結ばれた初めての国交であった。

二〇〇一年、ウランバートル郊外のダンバダルジャー日本人墓地に、日本政府が慰霊碑と資料館を建立し、開所式には小泉総理が出席した。私もその慰霊碑の前で読経してきた。ここはモンゴル国内に十六ヵ所あるとされる日本人墓地の一つであり、資料館には十六ヵ所全部の土が納められている。

     
仏教の伝来

モンゴルに仏教が伝わったのは一二四七年とされる。チベットから高名なサキャ派の高僧サキャ・パンチェンを招いたこの年が、公式の仏教伝来の年とされているが、その後はダライラマ系のゲルク派がモンゴルに広まったので、今回の旅行ではダライラマの写真を寺や民家の仏壇でよく目にした。

つまりチベット人は、自国がモンゴルに占領されたことを利用して、チベット仏教のモンゴル布教に成功したのであり、そしてチベット仏教はモンゴルの勢力拡大の波に乗ってアジア全体に広まっていったのである。ピンチをチャンスに変えたのだから、チベット人はなかなかしたたかな民族である。

モンゴルはチベット大蔵経から訳出したモンゴル語の一切経を持っている。日本の仏教が今も中国語のお経を読んでいることを考えると、少ない人口にしては立派なものだと思うが、寺の中では今でもチベット語のお経が重視されているという。

モンゴルを支配した清王朝は仏教布教のために多大の貢献をした。清がモンゴルに寺を作ったり、モンゴル語の一切経を開版したりしたのは、彼ら満州族もチベット仏教を導入していたのが一つの理由であるが、必ずしも親切心からだけではなかったようである。

清朝はモンゴルの弱体化を狙って仏教をひろめたという説がある。そして事実、仏教を輸入したことでモンゴルは文化的には向上したが軍事的に弱体化した。これはチベットも同じであり、チベットが仏教を受け入れて温和化、弱体化したのを見て、清は二匹目のドジョウを狙ったのかもしれない。

仏教は殺生を禁止している。だから仏教を信じる人は戦争を嫌う。また若い男が出家すると戦力も生産力も人口も減少する。こうしたことが清朝のねらいだったのかもしれず、現にモンゴルは国土の半分、チベットは国土の全部を中国に占領されている。しかし武力がすべてという人間ばかりだと人類は滅びてしまうから、こうしたことの評価はもっと大きな歴史の流れの中で判断するべきだと思う。

内モンゴルが今も中国の占領下にあることを考えると、清朝の崩壊後モンゴルがソ連に接近したのは正しかったといえるが、その代償は大きかった。ソ連の属国となったことでモンゴル仏教は共産主義政権から弾圧されることになり、とくに一九三六年から三九年にかけてはスターリンの直接命令とされる徹底的な弾圧を受けたのである。数万の指導的な立場にあった僧は銃殺され、九百あった寺院のほとんどが破壊されたり他の施設として転用され、モンゴル仏教はほとんど壊滅したのであった

今回の旅行ではお寺は三つしか見学しなかった。ウランバートルを代表するガンダン寺、日本人墓地のあるダンバダルジャー寺、カラコルムのエルデネゾー寺の三つである。ウランバートルでは他にも小さな寺をいくつか見かけたが中を見る時間はなかった。だからこれはその程度の情報に基づいての判断であるが、この国の仏教がまだ復興していないのは確かである。

その判断理由としては、寺の数が少なく境内の整備も不十分なことがまず挙げられる。この国を仏教国と呼んでもいいのかと迷うような状態なのである。また見かけたのは若い僧ばかりであったが、これは出家生活の伝統が断絶していることを意味すると思う。いちばん意外に感じたのは、チベット仏教圏でありながらチベット式の五体投地の礼拝をする人が一人もいなかったことである。ガンダン寺の巨大な観音さまに対しても、参拝者は立ったまま仏像の台座に額をつける程度の礼拝しかしていなかった。

しかし危機は好機である。危機感は勇猛心を燃え上がらせてくれるし、今ではダライラマのもとへ修行に行くこともできるのだから、モンゴル仏教の将来を悲観する必要はないかもしれない。

モンゴル帝国がアジア大陸を席巻したときの置き土産だと思うが、今もロシア国内にモンゴル人が住んでいて、そこでは仏教が信仰されている。その場所はバイカル湖周辺にある最北の仏教国といわれるブリアート共和国、モンゴルの西北に位置するトバ共和国、そしてはるか西のカスピ海北岸にあるヨーロッパ唯一の仏教国といわれるカルムイク共和国である。これらの国の仏教もモンゴル同様、共産政権からひどい弾圧を受けてきたという。

カラコルムのエルデネゾー寺院で旅行中の韓国人の禅僧に会った。目が合ったとき思わず視線をそらせてしまったほど強い禅定力の持ち主であり、まじめに長期間、修行してきた人だと一目で知れた。修徳寺という寺から来たと言っていたから曹渓宗の人であろう。その同行者の話ではいま韓国でいちばん有名なお坊さんだという。長い伝統と裾野の広がりの中からこのような人物が出てくる。こうした人物をモンゴル仏教がはやく生み出してくれることを期待する。

     
モンゴルの食べ物

モンゴル旅行でいちばん困ったのは食べ物であった。出てくるのは肉ばかりという状態だったからである。なにしろモンゴル人は野菜が出てきたりすると、俺はヒツジではないと言って怒るという徹底した野菜嫌いであり、現地ガイドはたまに野菜が出てきてもまったく手をつけなかった。

遊牧民の食べ物は基本的には夏はミルク、冬は肉である。子を産んだ家畜は夏の間ミルクを出してくれるから夏は乳製品を食べて過ごす。そして冬の初めに家畜をまとめて殺し、冷凍して冬の食料にする。肉は屋外に放置すればすぐ冷凍肉になる。肉はヒツジが一番おいしいという。

家畜は食べられる部分はすべて食べる。肉や内臓はもちろん、血は一滴もこぼすことなくそのまま飲んだり腸詰めにして食べ、骨に付いた肉のかけらもこそげ取って食べ、骨を砕いて髄も食べる。家畜のすべてを食べ、ミルクを飲むことで、野菜なしでも栄養がとれているらしい。残った骨は燃料にし、灰は草の生え方の悪いところに撒いて肥料にする。だからほったらかしに見える草原も彼らなりに管理しているのである。

モンゴル人は土地を耕すことを嫌う。雨の少ないモンゴルでは耕作が砂漠化を招くからであり、現に中国領になっている内モンゴルでは耕作が原因で大規模な砂漠化が進んでいるという。それに移動生活をしているのだから畑を作っても無駄になるし、野菜を植えても家畜に食われてしまうだけなので、遊牧民がゲルの回りに野菜を植えたりすることはない。日本人は空いた土地があるとすぐに野菜を植えたりするが、モンゴルでは定住している人でもそんなことはしないのである。

ということでゲルのまわりには家畜のフンが転がっているだけであるが、家畜のフンは貴重品である。草原や半砂漠地帯で人が生きられるのは燃料にするフンがあればこそであり、ためしに乾燥した牛のフンを手にとって嗅いでみたら、乾し草のにおいがするだけであった。

とにかく農耕民族が目の敵にしている雑草が遊牧民族の糧を生み出しているのだから、両者の発想の違いは大きいのである。

首都ウランバートルの緯度は北海道最北の稚内(わっかない)市と同じであり、しかもモンゴル高地の標高一三五〇メートルの地点にあるから、八月でも夜間は冷えこみ風が吹くとこごえるほど寒かったが、さすがに日中はかなり暑くなった。

当然モンゴルの冬の寒さは厳しく、シベリア寒気団に覆われるとマイナス四〇度以下にもなるというが、寒いからといって家畜を放っておく訳にはいかないのだから、遊牧は過酷な仕事であり遊びでできる仕事ではない。だから遊牧民ではなく放牧民と呼ぶべきだと思ったが、字通で遊の字を引いてみたら「すべて移動するものを遊という」とあるから、やはり遊牧民で正解らしい。遊子(ゆうし)とか遊人は旅人を意味するのである。

     
モンゴル人

モンゴル人は日本人とよく似た顔をしているし、お尻に蒙古斑(もうこはん)というあざを持つ赤ん坊がいるのも同じであるが、彼らは日本人よりはるかに体格がよく腕っぷしも強い。欧米人に引けを取らない彼らの体力のみなもとは、肉とミルクを主食とする食事にあるのだろう。

また遊牧民族には農耕民族のような恥ずかしがり屋や引っこみ思案屋はいない。家畜の群れを馬上から見下ろして支配し、それらを追い回したり殺したりしていると、毅然とした人間になるのだろう。男は無愛想な人間が多いが、きわめて活力に満ちた民族であるから、モンゴルが世界史の中で光芒を放つ日がまた来るかもしれない。相撲の世界以外でもモンゴル人が活躍することを期待したい。

今回の現地ガイドはトゥブシェーという名の十九歳の男性、この名は平和を意味するということで、モンゴル人にしてはきゃしゃな体格をしており、遊牧民の生まれだが遊牧の仕事がきついのでガイドになったと言っていた。

モンゴルの子供はよく働く。家畜の世話は子供の仕事になっているらしく、馬に乗ってヒツジやヤギを追っているのはたいてい子供である。その中には五歳ぐらいの子供もいるし女の子も混じっている。だからこの国の子供はみんなしっかりしている。馬から下りると子供だが、馬に乗っていると立派な遊牧民に見えるのである。

行きの機内では日本在住の三二歳のモンゴル人の男と隣りあわせた。以下は彼の自己紹介と嘆きである。

八年前に日本女性と結婚し、今は鈴鹿の自動車工場で働いている。日本にいるときは日本食を食べているので、帰国して久しぶりにモンゴル食を食べるとお腹をこわす。モンゴルには仕事がない。だから外国へ出稼ぎに行く若者が多い。私も二〇歳のとき国を出て韓国とカナダで働き、妻とはカナダで知りあい、姉は今もカナダにいる。

貧乏国から来た人間にはみんな冷たい。入国審査でもいろいろうるさく聞かれる。モンゴルは好きだが帰りたいとは思わない。仕事がないし泥棒が多く子供がいると安心して暮らせない。だからできれば日本に住みたい。しかし自動車工場で昇進するには資格を取らねばならないが、日本語は読み書きが難しく資格が取れない。だから同じ仕事ばかりしていなければならない。せっかく覚えた英語は日本では役に立たない。などなど、彼の嘆きは尽きなかった。ただし私はモンゴルの治安が悪いとは思わなかった。

帰りの機内では十六歳の女子学生二人と隣り合わせた。二人とも恵まれた家の生まれらしく大らかな性格をしており、一人は柔道、一人はレスリングの修行のため東京へ行くと言っていた。

     
ゲル

遊牧民の移動式の住居ゲルは、木の骨組みにフェルトをかぶせた大型のテントである。上から見ると円形をしていて大きさはさまざま、中に入ると中央に一メートルほどの間隔で二本の柱が立っていて、この柱の上に屋根の中央にある円形の天窓が取りつけてあり、その天窓の周囲から傘の骨のように棒が放射状に出ている。これが屋根の骨格である。壁の骨格は高さ一五〇センチほどの折りたたみ式の格子になっていて、そのうえに屋根の骨格を載せる。

この骨組みの上に厚さ一センチほどのフェルトをかぶせ、さらに防水のための布を掛けて完成である。ガイドの話だと彼が住んでいるゲルは、夏は一枚、冬は三枚フェルトを掛けるという。ゲルのまん中にはストーブが置かれ、天窓には煙突を出すための穴があいている。遊牧民はこのゲルの中で家族みんなが寄りそって暮らしている。だから自分の部屋もなければ、一人になれる場所もないが、彼らはこうした生活を好んでいるらしい。

草原は国有地なので、基本的にはどこにゲルを建ててもかまわないが、水と草を追ってたいてい毎年おなじ地域を移動し、夏は風のある涼しい所、冬は風の当たらない暖かい所にゲルを建てる。モンゴルでは北風が吹く。そのためゲルの入口は必ず南に向ける。昔は馬やラクダで往復してゲルや家財道具を運んでいたが、いまは車で運んでいる。最近は井戸が増えたので移動距離が短くなった。

この移動を怠ったり、家畜が増えすぎると土地が荒れる。ヒツジは臆病なうえに頭が悪いので必ずヤギと一緒に放牧するが、ヤギは草の根まで食べてしまうので、ヤギの割合が大きくなりすぎるのも土地の荒廃につながる。ところが最近カシミアの値が上がったことで、カシミアのとれるヤギの割合が増えてきたという。

     
ゴビ砂漠

ゴビは日本では砂漠の名前になっているが、本来は半砂漠状態の土地を意味する言葉である。そのため「最近ゴビが砂漠化してきた」などと言われたりする。また南ゴビとか東ゴビのように地名としても使われている。ウランバートルからゴビに向かって南下していくと、土地の起伏が小さくなっていくことがはっきりと分かる。そして平坦になったところがゴビである。

ゴビの砂は非常に細かい。だから水さえあれば上質の畑になる土地だと思うが、雨の少ないことでさらさらとした砂地になっている。そのため植物の種類は少なく、生え方もまばらで、丈も短い。ところがゴビの草は栄養が豊富なので家畜がよく育つという。その家畜がよく育つという草が薄桃色の小さな花をつけていた。よく見ると花も葉もニラに似ており、ちぎって嗅いでみたらやはりニラの匂いがした。その人間も食べられるという草が、見渡すかぎり咲いているのだから、密生していなくてもたいへんな数である。

ガイドブックで調べてみたら、花を付けていたその植物はヤマネギの仲間とある。そのヤマネギという名前を読んだとき、中国とパキスタンの国境にあるパミール高原は中国で葱嶺(そうれい。ネギの嶺)と呼ばれていて、その名前はネギのような植物が生えていることに由来する、ということを思い出した。つまりその植物というのはこれではないかと思ったのである。

     
モンゴルの民話

最後に「象と野ねずみ」というモンゴルの民話をご紹介したい。民話にはその民族の性格がはっきりと出てくるように思う。

昔々、小さな町の郊外に象が住んでいた。象は毎日、川へ水を飲みに行き、飲み終えると水をはね飛ばして遊んでいた。ところがその川の岸には野ねずみの住む穴があった。その穴は象が水遊びをするたびに水浸しになったので、困りはてた野ねずみは何度も何度も象に訴えた。「お願いだから、このちっぽけで哀れな家を荒らさないでください」と。ところが象はまったく耳を貸さず水を掛けつづけた。

ある日のこと、象が川へ行くと野ねずみが言った。「私の家を荒らすことをやめないなら、私は宣戦布告します」

ところが象はその言葉を気にもとめず馬鹿にして笑うだけであった。そこで野ねずみは近くに住む人たちに告げて言った。「私は象と戦います。明日までにここを立ち去ってください。そうしないと戦いの巻き添えになります」

金持ちたちはこの言葉に耳を貸さなかった。「こんなちっぽけなねずみが象と戦えるものか。巻き添えになるといっても大したことはあるまい」。しかし貧しい人たちはひょっとして巻き添えを食うと困ると思って立ち去った。

次の日、象はいつものようにのっそりと川にやって来た。待ちかまえていた野ねずみは、すばやく象の鼻の穴に跳びこむと鼻の中をかきむしり始めた。象はそのあまりの痛さと、息ができないことに耐えきれず悲鳴をあげて暴れまわり、あたりの人や家をはねとばした。そのため多くの金持ちが巻き添えを食って犠牲になり、ついには象も狂い死にしてしまった。野ねずみはその後、川岸の穴で幸せに暮らしたという。

参考文献
「地球の歩き方。モンゴル。05〜06」ダイヤモンド社
「モンゴルを知るための60章」金岡英郎 2000年 明石書店
「モンゴル仏教紀行」菅沼晃 2004年 春秋社
「モンゴル紀行」司馬遼太郎 2005年 朝日新聞社
「大いなるモンゴル」山元泰生 2007年 明石書店
「モンゴルの民話」松田忠徳 1994年 恒文社
「モンゴル現代史」バトバヤル 2002年 朝日新聞社

もどる