長慶慧稜禅師の話
長慶慧稜(ちょうけい・えりょう。八五四〜九三二)禅師は、浙江省、塩官(えんかん)の生まれ、俗姓は孫氏、生まれつき純朴で淡泊な性格の人であり、十三歳のとき蘇州の通玄寺で出家し、受戒後は禅の道場に歴参、西院思明(さいいん・しみょう)禅師や霊雲志勤(れいうん・しごん)禅師に参じたが疑いが残り、雪峰禅師のもとで疑情が氷解しその法を嗣いだ。
一日、慧稜が雪峰禅師に質問した。「歴代の諸聖が伝受してきた一路を、請う、指示したまえ」。禅師はただ黙然とするのみであり、それを見た慧稜は礼拝して退き、それを見て禅師は微笑した。
後日、雪峰禅師が慧稜に言った。「私は常々修行者たちに言っている。この山には一匹の毒蛇がいる。汝ら諸人、よく見届けよと」。慧稜が答えた。「今日も堂中で大いに喪身失命(そうしんしつみょう)する者があるでしょう」。禅師はこれを然りとした。
一日、雪峰禅師が慧稜に質問した。
「これ何ぞ」
「今日、天、晴る。普請(ふしん。総出で作務をすること)するに好し」
これ以後、問答をして玄旨に違うことは一度も無かった。悟解(ごげ)を頌(じゅ。詩)に述べて曰わく。
「万象の中、独り身を露(あらわ)す
人、自ら肯(うけが)わば、すなわちまさに親しからん
昔時(せきじ)謬(あやま)って途中に向かって求む
今日看れば火裏(かり。火中)の氷の如し」
雪峰禅師に師事して山を下らざること二九年、九〇六年に泉州の高官の王氏に請ぜられて招慶院に住し、のちに福州の長慶院に住した。この二寺で二七年間にわたって法を挙揚し、修行者はつねに千五百人を下らず、超覚大師と号した。九三二年五月十七日に帰寂し、寿は七九、法臘は六〇、王氏が塔を建てた。
出典「景徳伝灯録巻十八、福州長慶慧稜禅師」「宋高僧伝巻十三、後唐福州長慶院慧稜伝」
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