羅漢桂ちん禅師の話

羅漢桂ちん(らかん・けいちん。八六七〜九二八)禅師は、浙江省常山の生まれ、俗姓は李氏、はじめ童児(どうじ。行儀見習いの年少の修行者)として寺に入り、その頃からすでに質素な食事を日に一度するのみで、調息と調心をつねに心がけ、言うことが人と異なっていた。(ちん:深の三水を王に置きかえた字。玉とか宝を意味する。しん、とも読む)

元服すると親を辞して本府の万歳寺の無相大師に師事し、落髪して法衣を着るとまず戒律を学び、ある布薩(ふさつ)の日、台に上って大衆のために戒本を読みあげた。ところが布薩が終わると言った。「戒を守るはただ身を律するのみ、真の解脱に非ず。文によって解を作せば豈に聖を発することあらん」

そして南宗禅の門を叩き、雲居道膺(うんご・どうよう)禅師や雪峰義存(せっぽう・ぎそん)禅師に参じたが眼は開けず、のちに玄沙師備禅師に参じて啓発され、一言のもとに心が解き放たれて迷いが無くなり、その法を嗣いだ。

嗣法の後、その地の長官の王公が西石山に建てた地蔵院に住し、さらに羅漢院に移って法を挙揚した。そのため「地蔵桂ちん」あるいは「羅漢桂ちん」と呼ばれた。法眼宗の祖、法眼文益(ほうげん・もんえき)禅師の師であり、法眼禅師を大悟させたいきさつは法眼禅師の項に載っている。

九二八年の秋、びん(門の中に虫)城の旧居に行って近くの寺などを見て回り、その後にわかに病を示し、数日後、安坐したまま終わりを告げた。世寿六二、法臘四〇、荼毘に付して舎利を収め、遺命により塔を院の西の隅に建て、九三五年十二月望日(ぼうじつ。十五日)に納骨し、真応禅師と諡された。

出典「景徳伝灯録巻二十一、しょう(三水に章)州羅漢院桂ちん禅師」「宋高僧伝巻十三、後唐しょう州羅漢院桂ちん伝」

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