普化和尚の話

奇僧として知られる普化(ふけ)和尚は、唐代の人であるが生没年、生地、俗名などすべて不詳、馬祖大師の法嗣の盤山宝積(ばんざん・ほうしゃく)禅師に師事して深く堂奥(どうおう)に入り法を密受したが、常に狂をよそおいその発言は尋常ではなかった。

盤山禅師が順世(じゅんせ。死去)するとき、大衆に告げて言った。「誰かわしの姿を描き得る者ありや」。大衆が禅師の姿を描いて呈すると、禅師はその者たちを打った。すると普化がすすみ出て言った。

「それがし、師の姿を描き得たり」

「何ぞ老僧に呈せざる」

普化は筋斗(きんと。とんぼ返り)を打って出て行った。盤山禅師が言った。「この漢、今後、風狂の如くにして人を導くであろう」

盤山禅師が亡くなると普化は臨済宗の宗祖、臨済禅師が住む河北省鎮州へ行き、街頭や墓場で鐸(たく。大きな鈴)を振りながら人々に呼びかけて言った。「明頭に来たるもまた打し、暗頭に来たるもまた打す」。あるとき臨済和尚が一人の僧に命じて普化を試みた。その僧は普化和尚の胸ぐらをつかむと言った。「明ならず暗ならざる時は如何」。普化和尚が言った。「ありがたいことに、明日、大悲院でお斎(とき。食事)の供養がある」

また普化和尚は人の耳のそばで鐸を振り、あるいは鐸で人の背を打ち、そして相手が振り返ると言った。「我れに一銭供養せよ」。このようにおよそ人を見れば、相手の高下にかかわらず鐸を振ること一声したことから普化(普遍の教化)と号したという。

唐の咸通(かんつう。八六〇〜八七三))年間の初めごろ、滅を示すべく市に入り人々に言った。「我れに衣を一枚供養せよ」。ところが人々が衣を与えても受けとらなかった。そこで臨済和尚が人をつかわして棺桶を一つ与えると、普化はそれを受けとって言った。「臨済の小僧は饒舌だ」。そして皆に別れを告げて言った。「明日、東門へ行って遷化する」

翌日、人々が連れ立って見送りに行くと普化は言った。「今日は日が悪い。二日後に南門で遷化する」。人々が南門へ行くとまた言った。「明日、西門から出発するのが吉だ」。ところがその日も遷化せず、見送る人がようやく少なくなってきた。そして四度目には北門へ行き、門の外に棺桶をかつぎ出すと鐸を振りながら自ら棺桶に入って亡くなった。それを聞いた人々が競って北門へ走り棺桶のふたを開けると、そこに和尚の姿はなくただ遠ざかる鐸の声を聞くのみであった。

     
普化宗(ふけしゅう)

普化和尚を宗祖とする日本の普化宗は虚無僧(こむそう)の宗派である。今ではまったく見なくなったが、私が子供の頃には筒型の深編み笠をかぶった虚無僧が、尺八を吹きながら門付けして歩く姿をときどき見かけたものである。普化宗の成立を禅学大辞典は次のように記している。

普化和尚はいつも鈴鐸(れいたく。すず。りん)を持ち、これを鳴らしながら「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打、四方八面来旋風打、虚空来連架打」と唱えて歩いていた。この偈を普化四打話とか普化鈴鐸偈という。

張伯(ちょうはく)という人が、普化が鈴鐸偈を唱えているのを聞いてその宗風を慕い、師事することを願ったが普化は許さなかった。そこで張伯は自分が得意とする竹管(ちっかん。尺八)で普化の鈴鐸を模して吹くようになり、自ら虚鐸(こたく)と号した。こうして竹管によって普化鈴鐸の妙音が後世に伝えられ、それを法灯円明(ほっとう・えんみょう)国師が日本に伝えた。

法灯国師、心地覚心(しんち・かくしん)禅師は、一二四九年に入宋して臨済宗楊岐(ようぎ)派の無門慧開(むもん・えかい。無門関の著者)禅師の法を日本に伝え、和歌山県の由良に興国寺を開いた人である。日本には二十四流(にじゅうしりゅう)の禅が伝わったとされており、その一つが国師が伝えた法である。興国寺はもと妙心寺派に属していたが、昭和三一年に独立して法灯派の本山となり、最近また妙心寺派に戻った。

その法灯国師が無門禅師のもとで修行していたとき、普化宗の流れを伝える張参という修行者と親しくなり、普化宗の秘奥(ひおう)を授かった。そして帰国のとき普化宗の居士四人をつれて帰り、興国寺に普化庵を作って彼らを住まわせた。これが日本普化宗の始まりとされ、法灯国師はその祖とされる。普化宗は江戸時代にはかなりの勢力を持っていたが、明治四年に明治政府によって廃止され、その後復興されたが勢力は回復しなかった。

普化宗の詳細は分からないが、尺八を吹く吹禅(すいぜん)が修行の一つになっていること、尺八を吹きながら托鉢すること、法要のとき尺八を演奏すること、などの特徴があるという。尺八は一尺八寸が基本の長さになっていることから尺八と呼ばれており、その原型は唐代の中国で作られたという。

出典「景徳伝灯録巻十、鎮州普化和尚。巻七、幽州盤山宝積禅師」「宋高僧伝巻二十、唐真定府普化伝」「臨済録」

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