丹霞天然禅師の話

丹霞天然(たんか・てんねん。七三九〜八二四)禅師は、生国および俗姓は不詳、初め儒教を学び、科挙(かきょ。高級官吏の登用試験)の受験で長安へ行ったとき、宿のへやの中が白光で満ちる夢を見、占ってもらうと解空(げくう。空を悟る)の祥(しるし)といわれた。たまたま居合わせた禅者がたずねた。

「仁者(にんじゃ。貴公)、何れにか行く」

「選官のために行く」

「選官は選仏に比していかん」

「選仏のためには何処へ行くべき」

「江西(こうぜい)に馬祖大師が出世された。これ選仏の場なり。仁者、行くべき」

こうして江西へ行き、わずかに馬大師にまみえるや頭巾を手にとって額に当てた。馬大師は暫く見つめてから言った。「汝の師は南岳の石頭なり」

さっそく南岳へ行き石頭希遷(せきとう・きせん)大師に同じ仕草をすると、大師が言った。「馬小屋の仕事をするがよい」。礼拝して行者(あんじゃ。出家していない修行者)房に入り、その後飯炊き係を三年ほど務めた。

ある日、石頭大師が衆に告げて言った。「明日は仏殿のまえの草刈りをする」。翌日、大衆が鍬(くわ)や鋤(すき)で草を刈っていると、天然は盆に水を入れて頭を浄め、和尚の前に胡跪(こき。右膝を地につけ左膝を立ててひざまずく礼法)した。和尚はこれを見て笑い剃髪した。剃髪のあと戒を説き始めると、天然は耳を覆って逃げ出した。

ふたたび江西へ行って馬師に相見し、まだ参堂をしていないのに禅堂に入り、文殊菩薩の首にまたがった。大衆は驚いて馬師に報告した。馬師はみずから禅堂へ出向きそれを見て言った。「我が子は天然なり」。天然は下へ降り礼拝して言った。「法名を授けていただき感謝します」。こうして天然の名がついた。

石頭大師の法を嗣いでからは、天台の華頂峰に三年間住し、径山(きんざん)で道欽(どうきん)禅師を礼拝し、洛陽の香山(こうざん)では馬師の法嗣の伏牛自在(ふくぎゅう・じざい)禅師と莫逆の友(ばくげきのとも。親密な友)となり、洛陽の慧林寺(えりんじ)では大寒に遭ったとき木仏を焚いて尻をあぶり暖をとった。それを見た人がそしると禅師は言った。

「焼いて舎利(しゃり。遺骨)を取らん」

「木仏にどうして舎利がある」

「ならばどうして我れを責めるのか」

八二〇年の春、門人に告げて言った。「我れ林泉に老いを終えんことを思う」。門人は地を占って南陽の丹霞山を選び、庵を結んで終の棲家とした。ところが三年間に三百人を超える玄学者が集まり大寺を形成した。丹霞山は河南省、南陽府にあり、山中に禅師が住した棲霞寺(せいかじ)がある。

八二四年六月二三日、門人に告げて言った。「湯沐(とうもく。湯浴み)の用意をせよ。我れ行かんと欲す」。そして笠をいただき、杖をつき、沓(くつ)を履いて一歩を踏みだし、足が地に着く前に遷化した。寿は八六、門人は石を切り塔を作った。勅して智通禅師と諡し、塔を妙覚という。

出典「景徳伝灯録巻十四、ケ(とう)州丹霞天然禅師」「宋高僧伝巻十一、唐南陽丹霞山天然伝」

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