ほう居士の話

ほう居士(ほうこじ。?〜八〇八年。ほう:广の中に龍)は、湖南省、衡陽(こうよう)県の人、名はほう蘊(ほううん。ほうおん。)、字(あざな)は道玄、在家のまま一生を送ったのでほう居士と呼ばれ、その卓越した悟境から中国の維摩(ゆいま)居士と称された。また大金持ちの家の生まれであったが、修行の邪魔だと全財産を舟に載せて川に沈めたという逸話でも知られており、一人娘の霊照(りんしょう)も深く禅を会得していたという。

居士は代々儒教を生業とする家に生まれたが、若くして世俗を捨てて真理の探求を志し、唐の貞元(じょうげん)年間の初めに石頭和尚に謁見するや、言を忘じ宗旨を会得した。そのころ丹霞天然禅師と親しくなったという。

一日、石頭和尚が問うて言った。

「汝、老僧に見えてより日用の事は作麼生(そもさん。どうだ)」

「もし日用の事を問えば、即ち口を開くところ無し」

そして一偈を呈した。

「日用の事は別無し

 ただ吾れ自ら偶諧(ぐうかい)するのみ

 頭頭(ずず)、取捨に非ず

 処処、張乖(ちょうかい。相反すること)するなし

 朱紫(しゅし。朱とか紫とか)、誰か号を為す

 丘山、点埃(てんあい。塵)を絶す

 神通ならびに妙用

 水を運びまた柴を搬(はこ)ぶ」

石頭和尚はこれを然りとし、またさらに問うた。

「汝、出家を希望するか。在家のままでよいか」

「願わくば慕うところに従わん」

そう言って出家はしなかった。のちに江西に行き馬師に参問した。

「万法と侶(とも)たらざる者、是れ何人(なんびと)ぞ」

「汝が一口に西江(せいこう。長江?)の水を吸い尽くすを待って、即ち汝に向かって言わん」

居士は言下に玄要(げんよう。奥深い真理)を頓悟し、それから二年間、馬師のもとに留まって師事しその法を嗣いだ。これより越格(おっかく。抜群)のはたらきと弁舌が備わり、諸方の修行者たちから慕われた。

一日、金剛経の説法を聞きに行き、「無我無人」のところで座主(ざす。講師)に質問した。

「座主。すでに無我無人なら、誰か講じ、誰か聞く」

座主は答えられなかった。

「それがし、俗人なりといえど多少は知れり」

「居士の意、作麼生」

居士は一偈を示して言った。

「無我また無人、いかでか疎親あらん

 君に勧む、坐(講座)を歴(ふ)ることをやめよ

 直に真を求むるにしかず

 金剛般若の性は、外に一繊塵(いっせんじん)を絶す

 我聞ならびに信受、すべて是れ仮名の陳(つら)なれるのみ」

座主はこれを聞いて喜び讃歎した。

唐の元和年間、居士は北のかた襄漢(じょうかん)に遊び、また鳳嶺あるいは鹿門山、また町中あるいは村里と縁のままに漂泊し、やがて東岩に住し、のちに襄陽郊外の小屋に住んだ。竹ざるを作って糧を得、傍らにはいつも一人娘の霊照(りんしょう)がいた。居士の偈にいわく。

「心、如にして境もまた如、実も無くまた虚も無し

 有にもまた管せず無にもまた居らず

 これ賢聖(けんじょう)にあらず了事の凡夫なり

 易くしてまた易し、この五蘊に即して真智あり

 十方世界は一乗にして同じ

 無相の法身豈に二つ有らんや

 もし煩悩を捨てて菩提に入らば

 知らず、いずこにか仏地有らん」

     
臨終

居士がまさに入滅せんとするとき霊照が入ってきて言った。「すでに日は中天に上り、日蝕がおこっています」。居士が外へ出て見ている間に、霊照は父の座に登り合掌して坐亡した。居士は笑って言った。「我が娘ながらすばやい奴だ」。こうして居士は自分の死を七日延ばした。

州の長官が見舞いに来たとき居士が言った。

「ただ願わくは諸々の所有を空ぜよ

 慎んで諸々の所無を実とするなかれ

 好住(こうじゅう。別れの言葉。送る側は好去)、世間みな影と響きの如し」

言い終わるや、長官の膝を枕に遷化した。遺命により火葬にし、江湖(ごうこ。揚子江と洞庭湖。あるいは江西と湖南。また天下も意味する)に棄てた。人々は嘆き悲しみ禅門のほう居士は毘耶(びや。インドのバイサリ国)の維摩居士だと言った。詩偈(しげ)三百余篇ありて世に伝わる。

出典「景徳伝灯録巻八、襄州居士ほう蘊」

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