荷沢神会禅師の話

荷沢神会(かたく・じんね。六六四〜七五八)禅師は、襄陽(じょうよう)の生まれ、俗姓は高氏、性格は生まれつき誠実で明るく、幼年より師について儒教を学び、また老荘の教えを学んで心を明らかにした。後漢書を読んで仏教のことを知るや、士官をやめて親を辞し、十四歳で国昌寺の元(こうげん)法師の下で出家、経は手の平をかえすように易々と読み、戒律を学ぶとよく全うした。

そして六祖が法門をひらき学者が雲集していると聞くと、曹渓に六祖を訪ねた。相見したとき六祖が問うて言った。

「善知識、遠くから艱難辛苦して来る。本をもち来たるや。本があればまさに主を知るべし。試みに説いてみよ」

「無住をもって本となす。見は即ちこれ主なり」

「この沙弥、何としてか間に合わせの語を答える」

そう言って六祖は杖で打った。神会は打たれながら思った。「善知識には歴劫(りゃくごう。悠久の時間)にも逢い難し。今すでに逢うことを得たり。いかでか身命を惜しまん」。こうして六祖に師事した。

ある日、六祖が大衆に告げて言った。

「我れに一物あり。頭なく尾なく、名なく字なく、背なく面なし。諸人、知るや否や」

神会が前へ出て行った。

「是れ諸仏の本源にして、神会の仏性なり」

「名無く字無しと言ったではないか。汝はどうして本源とか仏性とか呼ぶのか」

神会は礼拝して退いた。

その後、西京(せいきょう。長安。洛陽が東京)で受戒し、曹渓へ戻って六祖の法を嗣ぐと、南陽の竜興寺、洛陽の荷沢寺に住した。

六祖滅後の二〇年間、曹渓の頓悟の宗旨は江南に埋もれてすたれ、嵩岳(すうがく)の漸悟の宗旨が長安や洛陽で盛んにおこなわれた。そのため七四五年、荷沢禅師は玄宗(げんそう)皇帝の治世に長安の都に入り、南宗頓悟と北宗漸悟のちがいを明らかにし、六祖の南宗禅こそが達磨大師正伝の禅であると説き南宗禅を挙揚した。これにより神秀禅師の法系は寂れていった。また顕宗記(けんしゅうき)を著して教えを世に広めた。荷沢禅師の法系を荷沢宗と呼ぶ。

ある日、故郷から便りがあり二親が亡くなったことを報じた。神会禅師は法堂(はっとう)に入って槌砧(ついちん。鳴らし物の一種)を打って言った。「父母ともに喪う。請う大衆の摩訶般若を念ずることを」

西紀七六〇年五月十三日の中夜、荷沢禅師は安らかに遷化した。寿は七五、翌年塔を洛陽の竜門寺に建て、塔所に宝応寺を置き、真宗大師および真宗般若塔の諡号(しごう。おくり名)を賜った。最後に顕宗記の初めの部分をご紹介する。

     
荷沢大師顕宗記

無念を宗と為し 無作を本と為す

真空を体と為し 妙有を用と為す

それ真如は無念なり 想念に非ずしてよく知る

実相は無生なり 豈に色心をもってよく見ん

無念の念は念に即して真如なり 無生の生は生に即して実相なり

無住に住すれば常に涅槃に住す 無行にして行ずれば即ち彼岸を超ゆ

如々不動なれば動用窮まり無く 念念無求なれば求むれど本無念

菩提は無得にして五眼を浄め三身を了ず

般若は無知にして六通を運び四智を弘む

是に知る

定に即して無定、慧に即して無慧、行に即して無行なることを

性は虚空に等しく、体は法界に同じ

六度はここより円満し、道品も是において欠くることなし

(後略)

略註
○五眼(ごげん。肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼)
○三身(さんしん。数種の説あり。代表的なものは、法身、報身、応身)
○六通(ろくつう。六神通)
○四智(しち。大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智)
○六度(ろくど。六波羅蜜。布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)

出典「景徳伝灯録巻五、西京荷沢神会禅師」「宋高僧伝巻八、唐洛京荷沢寺神会伝」「景徳伝灯録巻三十、荷沢大師顕宗記」

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