北宗神秀禅師の話
北宗神秀(ほくしゅう・じんしゅう。?〜706)禅師は、河南省、開封府、尉氏県の生まれ、俗姓は李氏、幼いときから儒教などを学び博学多聞の人として知られていたが、六二五年、貪愛をすてて洛陽の天宮(てんぐう)寺で出家した。そして師を訪ね道を尋ねて行脚し、黄梅(おうばい)県双峰の東山寺で五祖がひたすら坐禅につとめているのを見ると感服して言った。「真に我が師なり」
そして苦節することを心に誓い、自らたきぎを採り水を汲み道を求めた。そのため五祖は言葉には出さなかったが神秀を法の器と認めて重んじた。あるとき五祖が言った。「我れは多くの人を導いてきたが悟解(ごげ)において汝に及ぶ者なし」
五祖が亡くなると神秀禅師は湖北省、江陵の当陽山に住し、当陽山には薫陶を受けるべく四海の修行者が集まった。そのうわさを聞いた唐の則天武后(そくてんぶこう)が禅師を召して都下に至らしめ、内道場(ないどうじょう。宮中内の道場)において供養して道を問い、さらに当陽山に度門寺を置いて禅師の徳を明らかにした。そのため王公士庶(おうこうししょ。王族、公族、士族、庶民)にいたるまで禅師に心酔し、競い至って拝伏した。中宗(ちゅうそう)が即位すると一段と礼を加え、睿宗(えいそう)にいたる三帝の国師をつとめ、大臣の張説は弟子の礼をとった。
大衆に示した禅師の偈が伝灯録に載っている。「一切の仏法は自心本有なり。心外に求むるはまさに父を捨てて逃走するなり」
七〇六年、神秀禅師は東都(とうと。洛陽)の天宮寺において入滅し、賜りて大通禅師と諡された。遺体は多くの法物に飾られて竜門山へ葬送され、皇帝は見送って橋に至り、王侯士庶はみな葬所に至った。法嗣の普寂禅師や義福禅師は朝野(ちょうや。朝廷と民間)に重んぜられた。
南能北秀
神秀禅師は六祖の引きたて役として六祖壇経に登場させられたかわいそうな人物である。ただし宋高僧伝は神秀禅師と六祖との関係を次のように伝えている。
「神秀禅師は眉目秀麗にして身の丈は八尺、威徳巍巍(ぎぎ。高大)として王覇(おうは。王道と覇道。徳と力)の器であった。六祖とは同学で徳行相等しく、互いにもり立てあって私心なく、神秀禅師が六祖を則天武后に紹介し、都へ迎えるように取りはからったこともあったが、六祖はねんごろに固辞して立たなかった。六祖はそのとき使者に言った。『我が姿は見苦しい。北土の人がこの短躯を見ればあるいは法を軽んず。また我れは嶺南に縁があると先師が言われた。その言葉に背かざるべし』。そして神秀禅師が手紙で則天武后の意を伝えても大ゆ嶺を越えることはなかった」
五祖の法嗣の中では神秀禅師と六祖の二人が抜きん出ており、六祖の法系は南方に広まったので南宗(なんしゅう)禅と呼ばれ、神秀禅師の法系は洛陽や長安などの北方首都圏に広まったので北宗禅と呼ばれた。これを南能北秀(なんのう・ほくしゅう)という。
また南宗禅の特徴は自性を悟れば頓に成仏できるという頓悟(とんご)にあるとされ、北宗禅の特徴は段階的な修道を説く漸悟(ぜんご)にあるとされる。これを南頓北漸(なんとん・ほくぜん)という。ただし南宗、北宗の区別は南宗側が主張したものであり、この言葉には南宗こそが達磨大師の正系であり、優れているという主張が含まれている。神秀禅師は当陽山度門寺に住したのだから、当陽神秀あるいは度門神秀と呼ばれるべきだと思うが、伝灯録の見出しは北宗神秀となっている。このこともその辺りに理由があるのかもしれない。
両宗とも唐の時代に大きく発展したが、唐末からは南宗のみが栄えて五家七宗の成立をみた。それに対して北宗は普寂禅師や義福禅師の後は人を得ず法脈がはやく絶えた。そのため南宗側から非難されっぱなしということになってしまったのだと思う。
出典「景徳伝灯録巻四、北宗神秀禅師」「宋高僧伝巻八、唐荊州当陽山度門寺神秀伝」
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