永嘉玄覚禅師の話

永嘉玄覚(ようか・げんかく。六七五〜七一三)禅師は、浙江省、温州府、永嘉県の生まれ、俗姓は戴(たい)氏、字(あざな)は明道、幼年に出家し、三蔵をあまねく探り、天台止観の法門に精通し、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)つねに禅定を離れなかった。

のちに左谿山に隠棲した天台宗第八祖の左谿玄朗(さけい・げんろう)禅師に激励されて、東陽玄策禅師とともに曹渓に六祖大師を尋ね、相見するや錫杖と瓶(へい。水入れ)を携えたまま六祖の回りを三周し、卓然(たくぜん。スック)と立ち止まった。

六祖大師が言った。「それ沙門(しゃもん)は、三千の威儀、八万の細行を具す。大徳、いずれの所より来たりて大我慢を生ずる」

「生死事大(しょうじじだい)、無常迅速(むじょうじんそく)なり」

「何ぞ無生を体取し、無速を了ぜざる」

「体すれば即ち無生。了ずればもと無速なり」

「如是。如是(にょぜ。その通り)」

この六祖の言葉を聞いて大衆(だいしゅ)はみな愕然とした。玄覚は威儀を具して礼拝し、すぐ辞去することを告げた。六祖が言った。

「返ること、はなはだ速き」

「本より自ら動ずるにあらず。豈(あ)に速きこと有らん」

「誰か動にあらずと知る」

「仁者(にんじゃ。二人称の尊称)自ら分別を生ず」

「汝はなはだ無生の意を得たり」

「無生、豈に意あらんや」

「意無くんば誰かまさに分別すべき」

「分別もまた意にあらず」

六祖が嘆じて言った。「善哉(ぜんざい。善きかな)。善哉。少しく留まること一宿せよ」

玄覚は言われるままに一宿して翌日山を下り、こうして六祖の法を嗣いだことから一宿覚(いっしゅくかく)と呼ばれた。同行した玄策はそのまま曹渓に留まった。その後、温州へ帰って法を挙揚し、法席には多くの学人が集まった。著書の代表作は証道歌であるが、他にも禅宗の悟りや修行の要旨について浅きから深きまで多く書きのこし、慶州の刺史(しし。役人の職名)魏靖(ぎせい)がそれらを集めて十編にまとめて序をつけ、永嘉集と名づけて刊行し世に広まった。

七一三年十月十七日、永嘉禅師は安坐したまま滅を示し、十一月十三日、西山の陽(よう。山の南側)に塔を作った。春秋四九、勅して無相大師と諡し、塔を浄光という。宋の淳化年間、太宗皇帝が本州に詔(しょう。命じる)して重ねて龕塔(がんとう)を修理した。

最後に証道歌の最初の部分をご紹介する。禅師は永嘉県に生まれそこで法を挙揚したので永嘉禅師と呼ばれ、号は真覚(しんかく)という。そのため題は永嘉真覚大師証道歌となっている。

   
永嘉真覚大師の証道歌

君、見ずや、絶学無為(ぜつがくむい)の閑道人 妄想を除かず真を求めず

無明の実性は即仏性 幻化の空身は即法身(ほっしん)

法身を覚了すれば無一物 本源自性は天真仏

五陰(ごおん)の浮き雲は空に去来す 三毒の水泡は虚しく出没す

実相を証すれば人法なく 刹那に滅却す、阿鼻(あび)の業

もし妄語をもって衆生を誑(たぶら)かせば 自ら招く、抜舌(ばつぜつ)の塵沙劫(じんじゃごう)

頓に如来禅を覚了すれば 六度万行(ろくどまんぎょう)は体中に円かなり

夢裏(むり)、明明として六趣(ろくしゅ)あり 覚めて後、空空として大千(だいせん)もなし

罪福も無く損益も無し 寂滅性中に問覓(もんべき)するなかれ

比来(ひらい)、塵鏡は未だかって磨せず 今日、分明(ふんみょう)に須く剖析(ほうせき)すべし

誰か無念、誰か無生なる もし実に無生なら、不生も無し

機関木人(きかんぼくじん)を喚取(かんしゅ)して問え 仏を求め功を施せば早晩(そうばん)か成ぜん

四大(しだい)を放って、把捉すること莫れ 寂滅性中、飲啄(おんたく)するに随え

諸行は無常にして一切空なり 即ちこれ如来の大円覚なり

(後略)

略註
○絶学無為(ぜつがくむい。学ぶことの無くなったこと)
○法身(ほっしん。仏心仏性)
○五陰(ごおん。五蘊に同じ。色受想行識)
○阿鼻(あび。阿鼻地獄)
○抜舌(ばつぜつ。地獄で舌を抜かれる)
○塵沙劫(じんじゃごう。無限の時間)
○夢裏(むり。夢の中)
○六趣(ろくしゅ。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の六世界)
○六度万行(ろくどまんぎょう。六波羅蜜行と万行。六度は万行に通ず)
○大千(だいせん。三千大千世界)
○問覓(もんべき。求む)
○比来(ひらい。近来)
○分明(ふんみょう。ぶんみょう。明らかに)
○剖析(ほうせき。分析)
○機関木人(きかんぼくじん。あやつり人形)
○早晩(そうばん。いつ)
○四大(しだい。世界や肉体を構成する地水火風の四元素。大は元素の意)
○飲啄(おんたく。いんたく。飲食)

出典「景徳伝灯録巻五、温州永嘉玄覚禅師」「宋高僧伝巻八、唐温州龍興寺玄覚伝」「景徳伝灯録巻三十、永嘉真覚大師証道歌」

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