仰山慧寂禅師の話

仰山慧寂(きょうざん・えじゃく。八〇七〜八八三)禅師は、広東省、懐化県の人、俗姓は葉氏、十五歳のとき出家しようとしたが父母が許さなかったので、二年後に左手の薬指と小指を断って父母の前に置き、正法を求めることで父母の苦労に報いることを誓い、南華寺の通禅師により沙弥になった。

そしてまだ具足戒を受けていない時から諸方を行脚し、慧忠(えちゅう)国師の法を嗣いだ耽源応真(たんげん・おうしん)禅師に参じて玄旨を悟り、後に、い山霊祐禅師に参じて堂奥(どうおう。奥義)に入った。い山禅師と仰山禅師は五家七宗のひとつ、い仰宗(いぎょうしゅう)の祖であり、い仰宗の名は二人の名前から来ている。(い:さんずいに為)

初めて相見(しょうけん)したとき霊祐禅師が慧寂にたずねた。

「汝は、有主(うしゅ)の沙弥なるや。無主の沙弥なるや」

「主有り」

「いずれの処にかある」

慧寂は西から東へ歩いて立ち止まった。霊祐禅師は慧寂が異人なることを知り法を開示した。仰山が質問した。

「如何なるかこれ真仏の住処」

「思と無思の妙をもって霊炎の無窮を返思せよ。思が尽きて源に還れば、性相常住(しょうそう・じょうじゅう)、事理不二(じり・ふに)、真仏如々(しんぶつ・にょにょ)たり」

慧寂は言下に頓悟し、これより霊祐禅師に参じてその法を嗣いだ。

語句の説明をすると、性相常住の、性は本体、相は現象である。だから性相常住は、諸法の本体と現象が水と波のように本来不二にして常住であることを意味する。

事理不二の、事は相対差別の個々の現象、理は絶対無差別の本体、真如法性である。縁起の法でいえば、生じたり滅したりする個々の現象は事であり、生滅させる縁起の法そのものは理である。そして事と理はひとつの現象を両面から見たもので、事を離れて理はなく、理を離れて事はなく、事理は不二である。

仰山禅師は、い山に十五年間とどまり、彼の発言に学衆で従わない者はなかった。その間、江陵へ行って受戒して律蔵を学び、巌頭全豁(がんとう・ぜんかつ)禅師や石室善道(せきしつ・ぜんどう)禅師にも参じた。

そして霊祐禅師から密印を受けると、はじめ湖南省、王莽山(おうもうざん)に住したが化縁(けえん。教化の縁)が調わず、のちに江西省、宜春県にある仰山に移って禅院を開創すると、たちまち学徒が集まってきた。

つぎに伝灯録にある仰山禅師の言葉をご紹介する。

田を開墾しているとき慧寂が霊祐禅師に質問した。

「こちらはこのように低く、あちらはあのように高い」

「水はよく物を平らにする。水をもって平らげよ」

「和尚、水に用はありません。ただ高処は高平。低処は低平」

霊祐禅師はこれを然りとした。


仰山禅師が衆に示して言った。

「汝ら諸人、各自に回向返照(えこうへんしょう。自心を顧みる)せよ。我が言を記することなかれ。汝らは始めなきの始めより、明にそむいて暗に心を投じ、煩悩の根は深くして抜きがたし。ゆえにかりに方便を設けて汝らが煩悩を奪う。

それは子供に木の葉のお金を与えて泣きやませるが如きもの、珍しい宝物や黄金を並べて店を飾り客が来るのを待っているが如きものである。石頭大師は真金のみを売る店だが、我れは雑貨店である。人が来てねずみの糞を求むればねずみの糞を与え、真金を求むれば真金を与う」

時に僧ありて問う。

「我れはねずみの糞を要せず。和尚、請う真金」

「鏃(やじり)を噛もうと口を開いても、ろばの年が来ても無理だ」(矢を口で受け止めるのは無理だ。お前さんには無理だ。の意味か)


仰山禅師がおとうと弟子の香厳(きょうげん)にたずねた。「近日の見処(けんじょ。見解)いかん」

「それがし、にわかには説き難し」。そして後に偈(げ)をもって答えた。

「去年の貧はいまだこれ貧ならず。今年の貧は初めてこれ貧なり。去年は錐(きり)を立てる地も無く、今年は錐もまた無し」

汝はただ如来禅のみを得て、未だ祖師禅を得ず」


仰山禅師はのちに仰山から江西の観音院に移って衆生済度に尽力し、彼の教えは禅宗の標準となった。遷化の数年前に遺偈(ゆいげ)を作った。

「年七十七に満ち、老い去るは今日なり

 性に任せて自ら浮沈し、両手は屈した膝を抱く」

八八三年、韶州(しょうしゅう)の東平山において、偈のごとく七七歳で膝を抱いて滅を示した。勅して智通大師、妙光の塔と諡され、のちに塔は仰山へ移された。

     
一円相の義

仰山禅師は耽源応真禅師から一円相(いちえんそう)の義を伝えられた。これは慧忠国師が耽源禅師に授けたものであるが、仰山禅師が修行者を導くためによく用いたことから、い仰宗の円相六義(円収六門とも)と呼ばれている。一円相には九六種の義があり、それをまとめれば次の六種になるという。

一、円相。一円相は絶対の真実、仏法そのものをあらわしている。

二、義海。一円相の中に種種なる三昧すべてが含まれている。

三、暗機。一円相は主客の対立が生じる以前のはたらきをあらわしている。

四、字学。一円相は仏法を示す字義を含んでいる。

五、意語。一円相はそのまま宗意をあらわしている。

六、黙論。一円相はそのままで宗意にかなっている。(禅学大辞典より)

禅僧はよく一円相を描き無欠無余(むかんむよ)と賛をする。無欠無余は「欠くることなく、余ることなし」であり、円相でもって仏性、実相、真如、法性と呼ばれる絶対の真理を表現しているのである。

出典「景徳伝灯録巻十一、袁州仰山慧寂禅師」「宋高僧伝巻十二、唐袁州仰山慧寂伝」

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