南泉普願禅師の話

南泉普願(なんせん・ふがん。七四八〜八三四)禅師は、河南省、新鄭(しんてい)の人、俗姓は王氏、七五七年に大隗山(だいかいざん)の大慧禅師によって受業(じゅごう。出家)し、三〇歳のとき嵩岳で受戒、それから戒律を究め、楞伽経と華厳経を習い、さらに中論、百論、十二門論を学んだが、馬祖大師のもとで方便の教えをすべて忘れ去って遊戯三昧を得、その法を嗣いだ。

七九五年、嗣法ののち安徽省(あんきしょう)、池陽(ちよう)の南泉山に錫をとどめ、自ら谷を埋め木を切って禅院を開き、簑笠(みのかさ)を着けて牧童に交じって牛を飼い、山を開墾して田畑を作り作物を育てた。南泉山を下らざること三十余年という。

太和の初めごろ宣城の高官、陸亘大夫(りくこう・たいふ)が南泉禅師の道風を仰ぎ、請じて山を下らしめて弟子の礼をとった。これより宗風大いに振るい、学徒つねに数百を下らず、その教えは諸方に満ち、禅の名匠と呼ばれた。法嗣には長沙景岑(ちょうさ・けいしん)禅師、趙州従しん(じょうしゅう・じゅうしん)禅師、陸亘大夫などがいる。なお禅師は王老師(おうろうし)と俗姓で呼ばれることもある。

次に伝灯録から逸話をいくつかご紹介したい。まず猫を斬ったお話である。

ちなみに東西の禅堂、猫児(みょうに)を争う。それを見て、南泉禅師が猫を手にして言った。「言い得れば、すなわち猫児を救わん。言い得ずば即ち斬却(ざんきゃく)せん」。ところが誰も答えるものが無く、禅師は猫を斬った。

弟子の趙州が帰ってきたとき禅師が猫を斬った話をすると、趙州は履(くつ)を脱ぎそれを頭に載せて出ていった。禅師が言った。「汝が居れば猫を救えたものを」


陸亘大夫が言った。

「弟子、少しばかり仏法を会す」

「大夫(たいふ)、十二時中、作麼生(そもさん。どのような具合か)」

「寸糸も掛けず」

「なおこれ階下の漢」


陸亘大夫が言った。「肇法師(じょうほっし)、はなはだ奇怪なり。万物は同根、是非は一体、と言えり」

禅師は庭前の牡丹を指さして言った。「大夫、時の人のこの一株の花を見ること、夢の如くに相似たり」


病を得て亡くなるとき、第一座の僧がたずねた。

「和尚、百年の後(亡くなった後)いずれの処にか去る」

「山の下で一頭の水牛となる」

「それがしも和尚に従って行かん。可なりや」

「汝もし我れについて来るなら、一本の草を口にくわえ来たれ」


八三四年十二月二五日の未明、門人に告げて言った。「星、翳(かげ)り、灯、幻なること久し。言うことなかれ、我れに去来ありと」。言いおわると逝去した。寿は八七、法臘は五八、翌年の春、塔に納めた。

出典「景徳伝灯録巻八、池州南泉普願禅師」「宋高僧伝巻十一、唐池州南泉院普願伝」

もどる