雲門文偃禅師の話

雲門文偃(うんもん・ぶんえん。八六四〜九四九)禅師は、浙江省、嘉興の人、俗姓は張氏、幼くして出家することを望み、嘉興の空王寺の志澄律師について童子となり、十七歳で出家、二〇歳のとき江蘇省(こうそしょう)、毘陵(びりょう)の戒壇で具足戒を受け、志澄律師のもとで四分律(しぶんりつ)を学んだ。

雲門禅師は、陳尊宿(ちんそんしゅく)と呼ばれた睦州道明(ぼくしゅう・どうみょう)禅師に足をへし折られたとき大悟したと伝えられるが、伝灯録には「初め睦州の陳尊宿に参じて大旨を発明す」としか記されていない。その後さらに雪峰禅師のもとで修行を積みその法を嗣いだ。雪峰寺では器を隠して大衆に混じり修行をしたという。

雪峰山を辞したあとも、各地の道場を歴遊して多くの禅者と交わり、九一一年には曹渓に六祖の塔を拝した。韶州(しょうしゅう)の霊樹如敏(れいじゅ・にょびん)禅師の法席(ほっせき)では第一座となり、霊樹禅師が亡くなると請われてその法席を嗣いだが、本を忘れず雪峰禅師の法嗣として開堂(かいどう。住職になる儀式すること)した。

九二三年、広東省、乳源県の雲門山に光泰院(こうたいいん。別名雲門寺)を建立すると、常時千人の修行者が雲集し、匡真(きょうしん)大師の名を賜った。伝灯録には法嗣として六一人もの名が載っている。

禅師は五家七宗(ごけしちしゅう)のひとつ雲門宗の祖である。五家七宗の五家とは、臨済宗、曹洞宗、雲門宗、法眼宗、い仰宗(い:さんずいに為)の五つであり、これに臨済宗の流れを汲む黄竜派(おうりょうは)と楊岐派(ようぎは)を加えて七宗とする。黄竜派と楊岐派は伝灯録が成立した後の宗派なので、この派の人は伝灯録には載っていない。

禅の文献には雲門禅師の言葉がたくさん取りあげられており、公案のネタを提供したことでは趙州和尚とともに群を抜いている。その中でよく知られているのが「日日是好日(にちにちこれこうにち。ひびこれこうじつ)」という言葉である。

「一日、雲門禅師が修行者たちに言った。十五日以前は、汝に問わず。十五日以後、一句を言いもち来たれ。自ら代わって言わく。日日これ好日」

十五日以前と以後の意味にはいくつかの説があるが、ここで問題なのは「一句を言いもち来たれ」である。ところが気に入る一句を持ってくる者がいなかったので、「日日これ好日」と自ら示したのである。毎日が好日であるにはどうすればよいのだろうか。

つぎに雲門禅師の言葉を伝灯録からご紹介する。

「空しく時光を過ごすことなかれ。一たび人身を失えば万劫にも復せず。これ小事にあらず。古人、言えり。朝(あした)に道を聞かば夕べに死すとも可なりと。日夕、まさに何事をか行うべき。大いにすべからく努力し努力すべし」

ある僧が雲門禅師に質問した。「如何なるかこれ仏法の大意」

「春来たれば草自ずから青し」

雲門禅師は九四九年四月十日の深夜に示寂し、二五日に葬送が行われた。雲門山に住すること三十余年、遺誡により塔は建てず遺体は方丈に安置され、没後十七年に奇瑞があらわれたため大慈雲匡聖宏明大師と追諡(ついし)された。なお伝灯録には出身と臨終に関することは記されておらず、その部分は禅学大辞典による。

出典「景徳伝灯録巻十九。韶州雲門山文偃禅師」

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