洞山良价禅師の話

洞山良价(とうざん・りょうかい。八〇七〜八六九)禅師は、浙江省、諸曁(しょき)県の生まれ、俗姓は兪(ゆ)氏、まだ幼いときに出家を志し、師に従って般若心経を習っていたとき、「無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法」の意味を質問した。その質問が当を得ていたので師匠は驚き、「我れは汝の師にあらず」と言って、五洩山(ごえいざん)の礼黙(れいもく)禅師のもとに行かせた。そして礼黙禅師によって出家し、二一歳で嵩山(すうざん)で具足戒を受けた。

ここからは洞山禅師の行脚(あんぎゃ。修行の旅)の話であるが、伝灯録に載っている問答は私の手におえない難解なものばかりであり、意味の分からない部分がたくさんある。それでも曹洞宗に敬意を払い、分からないながらも書いてみる。

行脚に出てまず南泉普願(なんせん・ふがん)禅師に参じた。そこで馬祖の斎会(さいえ。追悼法要)の準備をしているとき、南泉禅師が衆僧に問いかけて言った。「明日、馬祖の斎会を行うが、馬祖は帰って来るだろうか」

答える者がなかったので良价が前に進み出て言った。「伴(ばん。連れ。友)あるを待ってすなわち来たるべし」

南泉禅師はそれを聞き、讃歎して言った。「この子は後生(こうせい。年少)なれど甚だ見どころがある」

「和尚、良を圧して賤と為すなかれ」

い山霊祐(いさん・れいゆう)禅師に参じたとき、良价が禅師に質問した。「近ごろ慧忠国師が無情説法(むじょうせっぽう)を説くと聞く。良价はその微を究めず」

無情説法というのは、山河大地、草木国土、などの心をもたないものが真理を説くことを意味する。

「その事はここにもある。ただその人を得がたきのみ」

「師の説くことを請う」

「この口ではとても無情説法を説くことはできない」

「師と同じように道を得ている人ありや」

「雲巌道人(うんがん・どうにん)なるものが山中に隠れ住んでいる。草を払い風に吹かれて尋ねるなら必ず汝のためになるであろう」

良价は雲巌曇晟(うんがん・どんじょう)禅師をたずねて質問した。

「無情の説法は誰か聞くことを得ん」

「無情の説法は無情にして聞くことを得ん」

「和尚は聞くや否や」

「我れもし聞かば、汝は我が説法を聞くことを得ず」

「もしそういうことなら、良价は和尚の説法を聞かず」

「我が説法を汝は聞かず。いわんや無情説法をや」

良价は偈を述べて雲巌禅師に呈した。

「奇なるかな。奇なるかな

 無情の説法は不思議なり

 もし耳をもって聞かば終に会しがたし

 眼で声を聞いてまさに知るべし」

辞去するにあたり雲巌禅師がたずねた。

「何れの所にか去る」

「和尚を離るといえども、いまだ止まる所を定めず」

「湖南に去ることなきや」

「無し」

「故郷に帰ることなきや」

「無し」

「いつか、ここへ返り来ることありや」

「和尚が住持するを待ってまた来たらん」

「ひとたび去れば逢うことは難しかろう」

「逢わざることの方が難しからん」

良价はまた雲巌禅師に問うた。

「百年の後、和尚の真をどう会得したかと問われたら、いかが答えん」

「ただ彼に向かって言うべし。只(ただ)這箇(しゃこ。これ)是(これ)」

良价は良久した。雲巌禅師が言った。

「この事を会得するには、大いにすべからく子細に明らかにするべし」

良价にはなお疑いが残った。後日、水を渡るとき、水に映った自分の姿を見て前旨を大悟し、一偈を作った。

「切に忌む、他に従って求むることを

 迢迢(ちょうちょう。遠くはるか)として、我れと疎(そ。疎遠)なり

 我れ、今、独り自ら往(ゆ)く

 処々に渠(かれ)に逢うことを得たり

 渠、今、正に是れ我れ

 我れ、今、是れ渠にあらず

 応(まさ)に須く恁麼(いんも。このように)に会すべし

 方(まさ)に如々に契(かな)うことを得ん」

後日、雲巌禅師の法要に際し、ある僧が問うた。

「先師は只(ただ)這(これ)是(これ)と言う。本当に是れなのか」

「是れなり」

「意旨はいかん」

「当時、ほとんど誤って先師の語を会せり」

「いぶかし、先師、かえって有ることを知るや、また無しや」

「もし有ることを知らざれば、いかでか恁麼に言うことを解せん。若し有ることを知らば、いかでかあえて恁麼に言わん」

雲巌禅師の法を嗣いだ洞山禅師は、初め新豊山(しんぽうざん)に住し、のちに江西省、新昌県にある洞山に広福寺(こうふくじ。後に普利院と改名。洞山寺とも呼ばれる)を開創し禅風を挙揚した。なお新豊山と洞山は同一の山という説もある。法嗣として伝灯録には、雲居道膺(うんご・どうよう)禅師、曹山本寂(そうざん・ほんじゃく)禅師など二六人の名が載っている。

洞山禅師は五家七宗(ごけしちしゅう)のひとつ曹洞宗(そうとうしゅう)の祖である。この曹洞宗という宗名の由来にはいくつかの説があり、そのひとつは洞山禅師とその弟子の曹山禅師の名から来たという説である。しかしそれだと曹山も宗祖ということになってしまうし、またその場合には洞曹宗とするべきであり、曹洞宗と弟子の名が先に来るのは不自然だと思う。単に語呂が悪いから逆にしたとは考えにくい。

また六祖大師が住した曹渓(そうけい)と、洞山禅師が住した洞山からきたという説もあるが、これもやはり説得力に欠ける説だと思う。

禅学大辞典には次の説が載っている。「曹山禅師は洞山禅師による五位説(ごいせつ)を伝承して大成し、五位説は世に喧伝された。はじめはこの五位の宗旨のことを曹洞宗と呼んでいたが、やがて洞山門下すべてを曹洞宗と呼ぶようになった」

五位説というのは法界を、偏(へん。差別。現象。事)と正(しょう。平等。経験以前のもの。理)に分け、これを組み合わせた五つの形式で平等と差別のあり様を説明したもので、最終的には平等即差別の世界を明らかにすることを目的としており、曹洞の五位説以外にも数種の五位説があったという。中国では五位説が重視されたので曹山禅師も重視されたが、日本では五位説が重視されなかったので曹山禅師も重視されなかった、そのため曹の字が先にくるとおかしく感じる、ということだろうか。

     
洞山禅師の言葉

洞山禅師がある僧に問うた。

「世間で何物かもっとも苦しき」

「地獄もっとも苦しき」

「然(しか)らず」

「師の意はいかん」

「僧の身でありながら大事(だいじ。本心)を明きらめざる、これを最苦と名づく」


洞山禅師が病んだとき、ある僧が問うた。

「和尚、病む。かえって病まざる者ありや」

「有り」

「病まざる者かえって和尚を看るや」

「老僧、彼を看るに分あり」

「和尚、いかにしてか彼を看ることを得ん」

「老僧看るときは、即ち病あるを見ず」

また洞山禅師が言った。

「この体を離れていずれの所にか我れと相見(しょうけん)せん」

衆、答えることなし。

     
遷化

八六九年三月、洞山禅師は、剃髪し、衣を着け、鐘を打たせ、厳然として坐化(ざけ。坐亡)した。時に大衆は号泣してやまなかった。洞山禅師はたちまち目を開き立ち上がって言った。「出家は物に心を付けず。それが真の修行である。生に労し死して休息す。なぜ悲しむのか」

すなわち主事の僧を呼んで愚痴斎(ぐちさい)を設けさせ、斎が終わってから死去することを告げた。愚痴斎は恋慕の情あることを責めて付けた呼び名とあるから、残された者の悲しみを和らげるために精進潔斎して何かの法要をおこなったのであろうか。あるいは食事を供したのであろうか。

人々の恋慕がやまなかったため愚痴斎は延長されて七日に至り、斎が終わると洞山禅師が言った。「僧家は行(こう)に臨んで、このように騒がしくするものではない」

そして八日目、浴し終わってから端坐(たんざ。坐禅)して遷化した。寿は六三、法臘四二、勅して悟本大師と諡し、塔を慧覚という。宋高僧伝に「死からかえり来て日を重ねるものは古にもこれあり。洞山禅師のごとく来去自由なる者は、近世に一人なるのみ」とある。

出典「景徳伝灯録巻十五、いん(竹冠に均)州洞山良价禅師」「宋高僧伝巻十二、唐洪州洞山良价禅師」

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