雲巌曇晟禅師の話

雲巌曇晟(うんがん・どんじょう。七八二〜八四一)禅師は、鐘陵(しょうりょう)の生まれ、俗姓は王氏、幼くして石門で出家し、初め百丈懐海禅師に参じたが、二〇年後に百丈禅師が亡くなったので、石頭希遷大師の法嗣、薬山惟儼(やくさん・いげん)禅師に師事し、嗣法ののち雲巌山に雲巌寺を開き宗風を挙揚した。

伝灯録には少なからず雲巌禅師の問答が記されているが、難解なものばかりなので省略する。曹洞宗の高祖、洞山良价(とうざん・りょうかい)禅師はこの雲巌禅師の法嗣である。

八四一年十月、雲巌禅師は病を示し、二六日、沐浴を終えると役僧を呼び、明日出立する僧があるから食事を用意するように命じた。ところが出立する僧はなく、その日の夜に禅師は帰寂した。世寿は六〇、荼毘(だび。火葬)に付して舎利(しゃり)一千粒余を得、石で墓を作り埋葬した。勅して無住大師と諡し、塔は浄勝という。

出典「景徳伝灯録巻十四、潭州雲巌曇晟禅師」「宋高僧伝巻十一、唐れい陽雲巌寺曇晟伝」

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