薬山惟儼禅師の話
薬山惟儼(やくさん・いげん。七四五〜八二八)禅師は、山西省、新絳県(しんこうけん)の出身、俗姓は韓(かん)氏、十七歳で潮陽西山の慧照禅師によって出家し、二九歳で衡岳(こうがく)寺の希操律師から具足戒を受け、石頭希遷大師に参じた。一日、惟儼が坐禅をしているのを見て大師が問うて言った。
「汝、ここに在って何をか作す」
「一切、為さず」
「それなら閑坐ではないか」
「閑坐ならば、すなわち為すなり」
「汝は為さずと言う。為さざるものはこれ何物ぞ」
「千聖(せんしょう)もまた知らず」
大師は偈をもって讃歎して言った。
「従来、共に住すれども名を知らず
縁に任せ相連れだってただ行くのみ
古よりの上賢もなお知らず
凡人のみがあえて明らめんとす」
石頭大師に侍すること十三年、惟儼は玄旨を証して大師の法を嗣ぎ、湖南省、岳州府にある薬山に住した。薬山は芍薬(しゃくやく)山とも呼ばれる芍薬の多い山である。禅師は戒律を厳守する人であり、著書はないが広く経論に通じ、その家風の特徴は禅の核心を一句で表現するところにあった。法嗣には雲巌曇晟(うんがん・どんじょう)禅師、道吾円智(どうご・えんち)禅師などがあり、雲巌禅師から曹洞宗の高祖、洞山良价(とうざん・りょうかい)禅師が出た。
以下に薬山禅師の言葉を伝灯録からご紹介する。
一日、院主(いんじゅ。事務を主宰する僧)が、薬山禅師に上堂(じょうどう。説法の座に上ること)をお願いした。禅師は上堂するや暫く沈黙し、そのまま方丈に帰って門を閉じてしまった。院主が後を追ってきて言った。
「和尚、上堂を許すに何としてか方丈に帰る」
「経に経師あり。論に論師あり。律に律師あり。どうして老僧を怪しむのか」
薬山禅師が坐禅をしていると、ある僧が質問した。
「坐って何をか思量(しりょう)する」
「この不思量底を思量す」
「不思量底、如何(いかん)が思量す」
「非思量」
ある僧が薬山禅師に質問した。「己事(こじ。自己の本心)未だ明かならず。和尚の指示せんことを乞う」
禅師は良久(りょうきゅう。しばらく沈黙)して言った。「我れ、今、汝がために一句を言うことは難(かた)からず。しかしたとえ汝が言下に悟ったとしても些少の悟りに過ぎない。そのために悟りを頭に思い描くようなことになれば、かえって我が罪過となる。互いに口を合して罪を免れんには如かず」
薬山禅師は修行者には坐禅しか許さなかったが、自分はいつも看経(かんきん。お経の黙読)していた。それを見てある僧が問うた。
「和尚は常に修行者が看経することを許さず。何としてか自ら看る」
「我れはただ眼を遮っているのみ」
「それなら私も和尚にならって看経するも可なりや」
「汝もし看経するなら牛皮をも見透すように看経せよ」
禅師の法を慕う朗州の太守(たいしゅ。地方の長官)が法を聴きたいと招待したが、何度招いても禅師は腰を上げなかった。そのためついに太守は自ら薬山にやってきた。ところが禅師はお経を読みふけるばかりで太守を顧みなかった。
侍者が言った。
「太守がお見えです」
太守は短気な性格の人だったので嫌みを言った。
「顔を見るは名を聞くに如かず」
それを聞いた禅師は「太守」と呼びかけ、太守が返事をすると言った。
「何ぞ耳を貴び目を賤しむ」
太守は胸に手を当てて謝し、それから質問した。
「如何なるかこれ道」
薬山禅師は上下を指さして言った。
「会すや」
「会せず」
「雲は天にあり。水は瓶(へい。水がめ)にあり」
太守は長年の疑いが氷解して満足し、礼をなして一偈を贈った。
「修練を積みて体は鶴に似たり
千株の松の下、二箱の経
我れ来たって道を問うも余説なし
雲は青天にあり、水は瓶にあり」
一夜、山中を経行(きんひん。歩行禅)していると、たちまち雲が開いて月が現れた。それを見た禅師は大笑一声し、その声は山の東の九〇里さきまで聞こえ、居民はみな隣家の笑い声だと思った。翌朝、人々は声の主をうわさし合って、ついに薬山に尋ねいたると、寺の者が言った。「昨夜、和尚が山頂で大笑したが、その声だろう」
この話を聞いて、太守がまた詩を贈った。
「幽居を選び得て野情をみたす
終年、送ることなくまた迎えること無し
ある時は直に孤峰の頂きへ上る
月下に雲は開き笑い一声」
禅師が大笑した場所と伝えられる長嘯峰(ちょうしょうほう)という峰が薬山にある。
八三四年二月、薬山禅師は臨終に際し叫んで言った。「法堂(はっとう。説法するための建物)倒る。法堂倒る」。大衆が柱を手で支えると、禅師は手をあげて言った。「汝らは我が意を会せず」。そして寂を告げた。世寿八四、法臘六〇、入室の弟子沖虚が院の東の隅に塔を建て、勅して弘道大師と諡し、塔を化城という。
出典「景徳伝灯録巻十四、れい州薬山惟儼禅師」「宋高僧伝巻十七、唐朗州薬山惟儼伝」
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