天皇道悟禅師の話

天皇道悟(てんのう・どうご。七四八〜八〇七)禅師は、浙江省金華県の生まれ、俗姓は張(ちょう)氏、幼いときから抜きん出た生得の精神と智慧を持ち、長じては神妙なる才智を発揮した。十四歳にして出家を志したが父母は許さず、そのため意を決して飲食を減じ、一日に一食わずかに食するのみでやせ衰えたため、やむなく父母は出家を許し、明州の大徳によって剃髪し、二五にして杭(こう)州の竹林寺で具足戒を受けた。

禅師は勇猛の人と言われ、風雨の暗夜に墓地でただひとり坐禅しても畏怖することはなく、常に六波羅蜜(ろくはらみつ)の行を精修することを心掛けていた。のちに浙江省余杭に遊び、径山法欽(きんざん・ほうきん)禅師に五年間参じて心法を受け、唐の大暦年間(七六六〜七七九)には鐘陵(しょうりょう)の馬大師のもとで二年間修行し、石頭希遷大師に参ずるや、言下に頓悟(とんご)してその法を嗣いだ。そして荊州(けいしゅう)東陽の柴紫山(さいしざん)に住し、学徒が大いに集まったため荊州城東の天皇寺に移った。法嗣に竜潭崇信(りゅうたん・そうしん)禅師がいる。

道悟禅師は客の貴賤にかかわらず、常に坐したまま会釈して迎え、たとえ政府の高官が問法に訪れて礼を尽くすことがあっても、送り迎えに出ることはなかった。

八〇七年四月、背痛の病を示して今月中に終わることを告げ、四月三〇日、にわかに典座(てんぞ。食事の係。長く修行した人が務める)を呼び、典座が近前すると言った。

「会すや」

「会せず」

道悟禅師は枕を取って地上に投げ、たちまちに寂を告げた。世寿は六〇、法臘三五、八月五日に郡の東に塔を建てた。

出典「景徳伝灯録巻十四。荊州天皇道悟禅師」「宋高僧伝巻十。唐荊州天皇寺道悟伝」

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