石頭希遷大師の話

石頭希遷(せきとう・きせん。七〇〇〜七九〇)大師は、唐の時代の広東省(かんとんしょう)高要の生まれ、俗姓は陳氏、母は大師を懐妊すると生ぐさいものを食するのを嫌うようになり、はたして幼くして人にすぐれ、保母の手を煩わすことがなく、成人すると泰然自若として自らを信じ、人に怒りの気色(けしき)を表すことがなかった。

生地は未開の地であったので、民は鬼神を畏れて淫祠(いんし。俗神を祭るほこら)を作り、牛を殺し酒を醸(かも)して供えるのを常としていた。大師はそのたびに淫祠を壊して牛を奪い、年に数十回もそうしたことがあったが村の長も止めることができなかった。

六祖が南から来たことを聞くと、大師はただちに出向いて弟子入りし、六祖のもとで得度したが、具足戒を受ける前に六祖が亡くなったので、遺命により青原山の行思禅師に師事してその法を嗣ぎ、天宝年間(七四二〜七五五)の初めごろ、湖南省、衡山(こうざん)の南寺へ行き、絶岳の上にそびえる台の形の巨石の上に庵を結んだ。そのため石頭和尚と呼ばれるようになった。その巨石はいまも残っている。

南岳あるいは寿岳とも呼ばれる衡山は、湖南省衡山県にある衡山山脈の主峰であり、中国五岳のひとつに数えられている。この山に住む鬼神たちが話を聴くために集まって来て姿を見せたので、大師はそれらの鬼神に戒を授けたという。

七六四年、門人に要請されて山を下り、梁端(りょうたん)で宗風を宣揚すると、江西の馬祖、湖南の石頭、と喧伝されるようになり、この二大師に見(まみ)えねば学ばざるが如しと言われ、多くの修行者が江西と湖南を往来した。法嗣に天皇道悟禅師、薬山惟儼禅師などがいる。参同契(さんどうかい)一編を著し、深遠な内容のため多くの注釈書が作られ、世に大いに行われた。

次に石頭和尚の言葉をご紹介する。

「我が法門は先仏より伝受す。禅定精進を論ぜずして仏の知見に達す。即心即仏なり。心仏と衆生と、菩提と煩悩と、名は異なれども体は一なり。汝らまさに自己の心霊を知るべし。体は断常の二見を離れ、性は垢浄に非ず。湛然円満として凡聖斉(ひと)しく同じなり。応用無方にして心意識を離る。三界六道はただ心より現ず。水月、鏡像、豈に生滅あらんや。汝よくこれを知らば、備わざるところ無けん」

次はある僧との対話である。

「如何なるかこれ解脱」

「誰か汝を縛する」

「如何なるかこれ浄土」

「誰か汝を汚す」

「如何なるかこれ涅槃」

「誰か汝に生死を与う」


石頭和尚が新到の僧にたずねた。

「いずれの所よりか来る」

「江西より来る」

「馬大師に見えしや」

「見ゆ」

和尚は切り株を指さしながら言った。

「馬師はどうしてこれに似ているのか」

僧は答えられなかった。再び江西に馬師を訪ねたとき、僧がこの問答を示すと馬師が言った。

「その切り株は大きかったか。小さかったか」

「はなはだ大なり」

「汝は力持ちだ。南嶽から大きな切り株を背負ってきた」

七九〇年十二月二五日に大師は順世(じゅんせ。出家の死をいう)した。世寿九一、法臘六三、門人が塔を東嶺に建て、無際大師、見相の塔と諡された。

出典「景徳伝灯録巻十四。石頭希遷大師」「宋高僧伝巻九。唐南嶽石頭山希遷伝」

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