青原行思禅師の話

青原派の祖、青原行思(せいげん・ぎょうし。?〜七四〇)禅師は、唐の時代の江西省安城の人、俗姓は劉(りゅう)氏、幼くして出家し、皆が集まって仏道を論じているとき彼はいつも黙然としていたが、六祖大師の法席(ほっせき)に参じると多くの会下の中で第一座になった。

一日、六祖が行思に言った。「これまでは法と衣(え)を師から弟子へと伝授してきた。法は心から心へ印するがごとく伝え、衣は信を表す。我れは今、人を得た。何ぞ不信を患う必要があろう。衣を受けてより我れは多くの難に遭った。これから争いはさらに多くなるであろう。よって衣は山門に留め置くこととする。汝は新たなところに教えを広めよ。法を断絶せしめることなかれ」

こうして行思は六祖の法を嗣いで、青原山に静居寺(じょうごじ)を開き、静居寺には修行者が雲集した。なお行思禅師と南嶽懐譲(なんがく・えじょう)禅師の二人を六祖の二大弟子とする。

六祖がまさに滅を示さんとする時、希遷(きせん)という沙弥が問うて言った。「和尚、百年の後(和尚亡きあと)、私は誰を師としたらよいのでしょう」

六祖が言った。「尋思(じんし)せよ」

希遷は六祖亡きあと、静処においてひたすら端座して尋思(究明思量)し、寂として生を忘ずるが如きであった。第一座の僧がたずねた。

「何故そのように坐っているのか」

「我れ六祖の遺誡を受けるが故に尋思するのみ」

「汝が師兄(すひん。兄弟子)の行思和尚がいま吉州に住している。汝が因縁は彼にあり。六祖の言葉は極めて明了である。汝が自ら迷えるのみ」

「尋思せよ」は「行思を尋ねよ」の意味であったという落ちである。希遷はすぐに六祖の墓に詣でて曹渓を辞し、青原山静居寺に行思禅師を尋ねてその法を嗣いだ。この僧が石頭希遷(せきとう・きせん)禅師であり、その法を天皇道悟(てんのう・どうご)禅師と薬山惟儼(やくさん・いげん)禅師が嗣ぎ、天皇禅師の法系から「雲門宗」と「法眼宗」、薬山禅師の法系から「曹洞宗」が成立した。そのためこれら三派は青原派と呼ばれている。

青原派発祥の地である青原山は、江西省廬陵県にある山紫水明の地であり、駱駝峰(らくだほう)、鷓鴣峰(しゃこほう)、雷泉、錫泉(しゃくせん)、虎咆泉(こほうせん)などの名所があるという。

七四〇年十一月十三日、行思禅師は上堂(じょうどう。説法の座に上る)して大衆に別れを告げ、結跏趺坐して遷化、僖宗(きそう)皇帝より弘済(こうさい)大師、起真の塔と諡された。

出典「景徳伝灯録巻五吉州青原山行思禅師」「宋高僧伝九唐京兆慈恩寺義福伝(附説)」

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