雪峰義存禅師の話
雪峰義存(せっぽう・ぎそん。八二二〜九〇八)禅師は、福建省南安の代々仏教を信奉する曾(そう)氏の家に生まれ、おむつをしている時から生臭いものを嫌い、鐘声が聞こえたり仏像が祭られていたりすると顔を動かした。
十二歳の時、父に連れられて玉澗寺(ぎょくかんじ)に参詣し、慶玄律師に逢うとにわかに礼拝して言った。「我が師なり」。そして沙弥(しゃみ。小僧さん)としてそのまま寺に留まった。十七歳で落髪し芙蓉山の常照大師に拝謁すると、大師は義存を法の器と認めてその肩を撫で、その後は大師のもとで修行し、幽州の宝刹寺で具足戒を受けた。
ところが雪峰禅師はなかなか悟りを開くことができなかった。そのためその精進努力の苦労を伝える「三たび投子(とうす)に登り、九(ここの)たび洞山(とうざん)に上る」という言葉が残っている。投子というのは投子山大同(とうすざん・だいどう)禅師の道場、洞山は洞山良价(とうざん・りょうかい)禅師の道場を意味するが、禅師が開悟したのはそのいずれでもない、れい(さんずいに豊)州の鰲山(ごうざん)であった。
それは雪峰禅師が岩頭禅師と一緒に行脚していて、鰲山で雪に降りこめられたときのことであった。岩頭はそのとき毎日寝てすごしていたが、雪峰の方はひたすら坐禅をしていた。それを見ていた岩頭がある日、一喝して言った。「門より入るは、これ家珍(かちん。家宝)にあらず。もし大教を播揚(はよう。挙揚)せんと欲せば、一一自己の胸襟より流出し来たるべし」。雪峰は言下に大悟し「今日始めて鰲山成道。今日始めて鰲山成道」とくり返し叫び礼拝した。
そして雪峰と岩頭はともに徳山宣鑑(とくさん・せんかん)禅師の法を嗣ぎ、嗣法ののち雪峰はしばらく霊洞巌に住し、それから福建省の象骨山に雪峰寺を開いた。すると夏冬ともに修行者が千五百人を下ることはなく、多くの弟子の中でもとくに、玄沙師備(げんしゃ・しび)、長慶慧稜(ちょうけい・えりょう)、鼓山神晏(くざん・しんあん)、雲門文偃(うんもん・ぶんえん)、保福従展(ほふく・じゅうてん)、などの諸禅師は群を抜いていた。八八二年に禧宗(きそう)皇帝より真覚大師の号と紫衣を賜った。
禅師は二四歳のとき会昌(かいしょう)の廃仏に遭遇した。これは唐の武帝が会昌三年(八四三年)から四年にかけておこなった仏教弾圧であり、その内容は寺院と経典を破し、僧尼を廃す、ということであった。そのためそのときには雪峰禅師も還俗させられ、俗服で修行を続けたという。廃仏の理由は、国家財政への悪影響、教団や僧尼の堕落、私度僧(しどそう)の横行などであり、武帝は道教を信奉していたので道教は弾圧しなかった。
中国仏教には三武一宗(さんぶいっそう)の法難と呼ばれる四大廃仏事件がある。三武一宗は、唐の武帝、北魏(ほくぎ)の武帝、北周の武帝、そして後周(こうしゅう)の世宗(せそう)、という四人の皇帝を意味しており、唐の武帝による会昌の廃仏はその中でもっとも規模が大きく徹底したものであった。唐王朝による寺院僧尼に対する制限禁止令の総決算に当たる廃仏であり、仏教は未曾有の打撃を受けたが、廃仏が終わると以前にも増して勢いを盛りかえした。
雪峰禅師は雪峰山に住すること四十余年、九〇八年三月に病気になり、国守が医者を派遣したが、私は病気ではないと言って薬を飲まなかった。そして遺偈(ゆいげ)を作り、法を伝授し、五月二日、朝から藍(あい)の畑に遊んで暮れに帰り、体を洗い清めると中夜に入滅した。世寿八七、法臘五九であった。
出典「景徳伝灯録巻十六。福州雪峰義存禅師」「宋高僧伝巻十二。唐福州雪峰広福院義存伝」
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