岩頭全豁禅師の話
岩頭全豁(がんとう・ぜんかつ。八二八〜八八七)禅師は、福建省南安県の生まれ、俗姓は柯(か)氏、若くして青原の誼公の会下で出家し、長安の宝寿寺で具足戒を受け、はじめは経と律を習い、のちに禅を志した。
岩頭禅師は雪峰義存禅師、欽山文邃(きんざん・ぶんすい)禅師と仲がよく、しばしば三人連れだって行脚し逸話を残している。欽山の生没年が不明なので断言はできないが、雪峰が一番年長、欽山が一番若かったようである。ところが貫禄からいっても開悟の早さからいっても岩頭が一番の兄貴分であった。そして岩頭と雪峰は徳山宣鑑(とくさん・せんかん)禅師の法を嗣ぎ、欽山は曹洞宗の高祖である洞山良价(とうざん・りょうかい)禅師の法を嗣いだ。
岩頭は初め仰山慧寂(きょうざん・えじゃく)禅師に参じ、それから徳山禅師に参じた。嗣法ののち岩頭と雪峰はともに徳山のもとを辞し、岩頭は洞庭(どうてい)湖畔の臥竜山(がりゅうざん)で宗風を挙揚し、雪峰は象骨山で多くの弟子を育てた。
八八七年、中原(ちゅうげん)に賊が起こり、山内の大衆はみな賊を恐れて逃げだしたが、岩頭禅師はひとり平然と端坐していた。そして四月八日に賊がやってきて大いに責めたてたが禅師は金品を一切出さず、そのためついに刀で刺し貫かれ、神色自若として一声大きく叫んで終わった。その声は数十里先まで聞こえた。世寿六〇、清儼(せいげん)大師と諡された。なお中国の一里は日本の十分の一程度の距離である。
出典「景徳伝灯録巻十六。鄂(がく)州巌頭全豁禅師」
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