玄沙師備禅師の話

玄沙師備(げんしゃ・しび。八三五〜九〇八)禅師は、唐代末の福建省の生まれ、俗姓は謝氏、幼い頃から釣りを好み、いつも南台江に小舟を浮かべていたので漁師たちと仲がよかった。三〇歳になったとき、にわかに出塵(しゅつじん。出家)せんことを願い、竿と船を捨てて芙蓉山の霊訓禅師のもとで落髪し、予章の開元寺の道玄律師に具足戒を受け、雪峰義存禅師に参じてその法を嗣いだ。

雪峰禅師とは親しい間柄であり、互いに相手を修行の手本にしていた。雪峰禅師が象骨山(ぞうこつざん。雪峰山)に崇聖寺(すうしょうじ。雪峰寺)を開いたときには、師備禅師も大いに尽力した。

彼は小男であったがあふれるばかりの精神力の持ち主であり、いつも粗末な木綿の衣に藁ぐつを履き、わずかに修行を続けられるだけを食し、常に終日坐禅をしていた。雪峰禅師はその簡素できびしい修行を見て、彼を頭陀(ずだ)と呼んで尊敬していたが、他の修行者は彼を変人と見なして畏れ、謝家の三男なので謝三郎(しゃさんろう)と呼んでいた。

あるとき雪峰禅師が師備禅師に質問した。

「頭陀はどうして諸方の道場を行脚しないのか」

「達磨、東土に来たらず。二祖、西天へ行かず」

衆生本来仏であるから、自心を明らめれば行脚の必要はないというのである。師備禅師は石につまずいたとき大悟したと伝えられているが、その話は伝灯録には載っていない。その代わりに、楞厳経(りょうごんぎょう)を読んで心地を発明し、それからは何ごとに対しても経の真意にかないながら自在に対応できるようになったとある。

のちに雪峰山を去って普応山に庵をかまえ、それから玄沙院と安国院に住した。安国院には七百人をこえる修行者が集まり、法嗣には地蔵桂ちん(ちん:深のさんずいを王にした字)禅師、国清師静禅師などがいる。昭宗より紫衣と宗一大師の名を賜った。

師備禅師は高熱を発して亡くなった。「私は大悟徹底した人間だが尽大地ことごとく燃え上がっている。君ら未熟者にはとても耐えられまい」。弟子の休長老が言った。「和尚はつねに修行者たちを叱咤激励してきたのに、何故このようなことになったのです」。「大修行底の人でもこういう事がある。君たちならなおさらだ。諸大徳、覚悟はよいか」

これが最後の説法となり、九〇八年十一月二八日に安国院で示寂、飛山の原の玄沙院に葬られた。世寿七四、法臘は四五であった。

以下に師備禅師の言葉をご紹介する。

「三界は安きこと無く、なお火宅の如し。汝らは未だこれ安楽を得る底の人にあらず。今若し了ぜずんば、明朝、後日に見よ。ろばや馬に生まれ変わり、鞍を背負い、くつわをはめ、農具を引き、臼で砕かれ、水火の中で煮たり焼いたりされることになるだろう」

「知るや、国王大臣は汝をとらえず、父母は汝をゆるして出家せしめ、十方の施主は汝に衣食を施し、土地竜神は汝をまもる。すべからく慚愧を具し、恩を知りて始めて得べし」

「汝ら諸人は、大海の中に坐って水に頭を浸しながら、さらに手を差しのべて人にたのみ、水を乞い求めて飲むがごとし。それ般若を学する菩薩は大根機と大智慧があって始めて得るべし。もし智慧あらば即今すなわち解脱することを得ん。もし根機遅鈍ならば、直にすべからく勤苦し忍耐して、日夜に疲れを忘れ食を忘れること父母を喪うがごとくに似て、急に切に一生を尽くし去るべし。骨を刻し実を究めればまた成就することを得ん」

出典「景徳伝灯録巻十八。福州玄沙宗一大師」「宋高僧伝巻十三。梁福州玄沙院師備伝」「玄沙広録、上・中・下。入矢義高監修。禅文化研究所。昭和62年。63年。平成11年」

もどる