黄檗希運禅師の話

臨済宗の宗祖である臨済義玄禅師の師、黄檗希運(おうばく・きうん)禅師は、福建省福州で生まれ、幼くして福建省福清県の黄檗山で出家した。身の丈七尺の大男であり、人柄はいたって淡泊、声は朗らかにして潤いがあり、額のまん中が隆起してこぶのようになっていた。

修行時代に天台山を行脚したとき、禅師は射るような眼光をもつ一人の僧に出会い、旧知のごとく親しくなり談笑した。連れだって旅を続けていると、激しく増水している谷川に行き当たり、禅師が杖を立てて立ち止まり笠をはずすと、その僧は禅師の手を引いて一緒に渡ろうとした。

禅師が言った。「渡りたければ一人で渡るがよい」

その僧は衣をかかげて平地を歩くように波の上を歩いて渡り、振りかえって言った。「渡り来たれ。渡り来たれ」

「咄(とつ。叱りつける声)。この自了の漢。正体が分かっていたなら、足を切ってやったものを」

「まことに大乗の器なり。我れの及ばざる所なり」。そう嘆じてその僧は姿を消した。

都へ行ったとき、一人の老婆がなぜか彼を呼びとめて食事を供養し、食事が終わると言った。「私は五つの障りがある女の身でありながら、かたじけなくも慧忠(えちゅう)国師を礼拝したことがあります。師にお勧めします。百丈禅師を尋ねなさい。あなたは気高く威厳に満ちていなさる。まちがいなく大乗の器です」

老婆に啓発されて希運は百丈禅師に参じ、その法を嗣ぐと大安寺、黄檗寺、竜興寺、開元寺などに住した。在家の弟子に裴休(はいきゅう)という唐の高官がおり、禅師を助けて寺をつくり語録を編集した。禅師の生没年は明かではないが、唐の大中十年(八五六年)ごろに遷化し、断際禅師と諡された。

禅師が出家した黄檗山は、七八九年に六祖の弟子の正幹禅師が般若堂という一寺を建立して開いた山である。この寺はのちに臨済宗の大道場に発展して万福寺(まんぷくじ)と改名され、そして江戸時代の初期、この万福寺の住職をしていた隠元隆g(いんげん・りゅうき)禅師が、明代末の混乱を避けて日本へ渡来し黄檗宗を伝えた。隠元禅師が伝えたのは実は臨済宗であったが、臨済宗はすでに日本に存在したので、黄檗宗という一派を立てて京都府宇治市に日本黄檗宗の本山を創建し、黄檗山万福寺と名づけたのであった。

黄檗山という山名はこの山で黄檗が採れたことに由来する。黄檗はミカン科の落葉植物キハダの内皮のことであるが、キハダの木の別称ともなっている。鮮やかな黄色をしたキハダ内皮は古代から健胃剤や染料として利用され、今でもそれを原料にした陀羅尼助(だらにすけ)という健胃剤が奈良で作られている。

出典「景徳伝灯録巻九。洪州黄檗希運禅師」「宋高僧伝巻二十。唐洪州黄檗山寺希運伝」

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