カンボジアの話

平成二〇年二月、カンボジアへ行ってきた。出発したとき私の住む町は積雪四〇センチの吹雪であったが、常夏の国カンボジアでは日中気温が三〇度をこえていた。今回の旅の目的は、仏教国カンボジアの仏教を調べることと、ベトナム戦争、ポルポトによる大虐殺、ベトナム軍の侵入、といった災難に立てつづけに襲われたカンボジアの現状を見ることであった。

カンボジアは正式国名をカンボジア王国といい、政体は立憲君主制、面積は日本のほぼ半分、人口は約一三五〇万人、国民の九割はクメール人、国民の九割以上が仏教徒、という国である。

この国は憲法で上座部(じょうざぶ)仏教を国教に定めているが、信教の自由も保障されており、中国やベトナムの大乗仏教、キリスト教、イスラム教、なども存在している。日本とおなじようにクリスマスの行事も定着しているが、やはり宗教的な意味を持たない単なる娯楽になっているという。なお上座部仏教というのはいわゆる小乗仏教のことであるが、小乗仏教という呼称は今は使われなくなった。

カンボジアの仏教を知るには、次の三点を押さえる必要があると思う。それは仏教とヒンズー教との関係、仏教と仏教以前からある精霊信仰との関係、上座部仏教と大乗仏教との関係、の三点である。

カンボジアは過去に仏教とヒンズー教の両方を受け容れており、時の国王がどちらに帰依するかによって、仏教が栄えたりヒンズー教が栄えたりしてきた。そのため仏教とヒンズー教が対立したこともあるし、ヒンズー教から仏教へ、あるいはその逆へと宗旨がえした寺院もある。なおアンコール王朝期の寺院遺跡は、仏教よりもヒンズー教の方が数が多いことから判断すると、この王朝ではヒンズー教の方が優勢だったようである。

つい最近アンコール・トム遺跡の地中から、大量の仏像が上智大学の研究者によって発見されており、これらは宗教対立が原因で破壊され埋められたのだろうといわれているが、仏教とヒンズー教はいつも対立していたわけではなく、大体においては共存してきた。とくにアンコール時代の仏教は、ヒンズー教とよく似た大乗仏教だったので、当時の人々は違和感なく両方を受け入れていたようであるが、大乗仏教はアンコール王朝と運命をともにしたらしい。

ヒンズー教は宗教組織としては今は存在していないというが、ヒンズーの神さまもよく祀られていて、特にビシュヌ神の人気が高く、私が泊まったホテルの庭にも金色の立派なビシュヌ神が祀られていた。ただしヒンズーの神々は仏さまの下位に置かれているというから、そのあたりことは日本とよく似ている。

上座部仏教はタイ国の勢力がカンボジアに及んだ十三世紀以降に、タイ経由で入ったきたとされる。ただし現地ガイドはスリランカから直接伝わったと主張していたが、これはタイに対する反発から出た言葉だと思う。もちろん東南アジアの上座部仏教はスリランカから伝わったものなので、スリランカとの交流もあったはずである。

また仏教以前の精霊崇拝がよく残っているのも日本とよく似ている。日本の神社のような立派なものは見なかったが、大きな木や石にはたいてい祠が置かれていたし、民家の庭にも祠がよく祀られていた。仏教やヒンズー教などインド生まれの宗教は、他宗教に対する寛容性が大きく、これまで訪れたすべての仏教国で仏教以前の信仰が残っていた。

この国では一生に一度は出家するのが望ましいとされているため、在家の人であってもその多くが短期の出家を体験している。また理想とされる隠居生活も仏教に根ざしたものなので、残された日々を戒を守り徳を積んで過ごしたいと、在俗のまま寺に入って仏教を学ぶ人もある。なおこの国の仏教には比丘尼(びくに。女性の出家修行者)は存在しない。

お盆に似た行事がカンボジアにもある。それは最重要の仏教行事とされるプチュム・バンであり、その内容は寺に布施をおこないその功徳を祖先に回向する、ということらしい。これは陰暦十月の満月の日から十五日間おこなわれ、最後の三日間は連休になるという。

東南アジアの人たちはよくお寺参りをする。寺へ行くのは仏さまを礼拝するためであり、蓮の花を供え、ロウソクと線香を立て、タイやビルマでは仏像に金箔を貼り、それからゆっくりと礼拝する。そういう人たちと一緒に礼拝していると、強い連帯感と安らぎを感じてまた行きたくなる。

     
アンコール・ワット

カンボジアといえばまずアンコール・ワットである。この国旗にも描かれている世界遺産の遺跡は、十二世紀前半に作られた巨大寺院の遺跡であり、南北千三百メートル、東西千五百メートルの堀に囲まれている。

この寺院は三大仏教遺跡の一つに数えられることもあるが、本来はビシュヌ神を祀るヒンズー教寺院であり、王の墳墓も兼ねていた。もっとも上座部仏教が定着してからは、仏教寺院として使われてきたのだから、仏教遺跡としても間違いではないが、今なおヒンズーの神々の像もたくさん残っていることを考えると、カンボジア版の神仏習合寺院というべきであろう。

アンコール遺跡群は一五〇年ほど前、フランスの博物学者アンリ・ムオによって発見され、それまでこの遺跡群は人に知られることなく密林の中で眠りつづけてきたとされる。しかし地元の人間まで知らなかったというのはあまりに不自然である。インドのアジャンタ遺跡も、一千年ものあいだ人知れず密林の中に眠っていたのを、虎狩りにきたイギリス人が発見したことになっているが、これらはヨーロッパ人にとっての初めての発見ということであろう。ポルトガルの教科書には、日本の国は種子島に漂着したポルトガル人が発見したことになっているというから、事情はそれと同じであろう。

日本人で最初にアンコール・ワットへ来たのは、森本右近太夫一房なる人物とされ、この人が墨で書いた落書きがアンコール・ワットに残っている。落書きの内容は、江戸時代初期の寛永九年(一六三二年)に仏像四体を奉納したということなので、当時すでに仏教寺院になっていたらしい。

それから八〇年後、島野兼了という長崎で通訳をしていた人が、三代将軍家光から祇園精舎の視察を命ぜられて、なぜかアンコール・ワットへやって来た。彼は知ってか知らずか、ここを祇園精舎と見なして見取り図を作り、一七一五年に献上している。

     
アンコール・トム

アンコール・ワットのすぐ北にあるアンコール・トムは、アンコール・ワットから半世紀おくれの十二世紀後半に、クメールの覇者と呼ばれるジャヤバルマン七世が作った、一辺三キロメートルの正方形の城郭都市であり、周囲は堀と高さ八メートルの城壁に囲まれている。彼の時代がクメール王朝の絶頂期であり、王朝はインドシナ半島全域を領有する大帝国となり、数百の宗教施設が各地に作られた。

ジャヤバルマン七世は大乗仏教に帰依していたので、アンコール・トムの中心には大乗仏教寺院であるバイヨン寺院が建っている。また四面に観音菩薩を彫刻した塔も城内に五四基ある。アンコール・トムもアンコール・ワットも古代インドの宇宙観に従って作られており、アンコール・トムの場合、中央のバイヨン寺院は須弥山、そこから東西南北にのびる道は須弥山から四つの世界に向かう道、城壁はヒマラヤの霊峰、その外側の堀は世界を取り囲む大海を表しているという。

アンコール遺跡群は砂岩とラテライトという岩で作られているが、カンボジア人はアーチの技術を持っていなかったのか、ここの建物にアーチは使われていない。そのため大きな内部空間をもつ建物はない。

     
カンボジア小史

クメール人はもとはメコン川中流域、現在のラオス南部に住んでいた。それが五〜六世紀ごろ現在のカンボジアの地に南下して国を作り始めた。

八〇二年、ジャヤバルマン二世によりアンコール朝が創設された。

八八九年、ヤショーバルマン一世が即位し、現在のアンコール遺跡の地に王都を移した。

一一一三年、スールヤバルマン二世が即位し、アンコール・ワットを造営した。

一一七七年、王都がベトナムの海洋貿易国家チャンパの軍隊に一時占領されたが、すぐに奪還し、アンコール朝が今度はチャンパを占領した。

一一八一年、ジャヤバルマン七世が登場すると王朝は最盛期を迎え、アンコール朝はインドシナ半島全体を領有する大王朝となり、アンコール・トムが作られた。しかし彼が亡くなると国力は急速におとろえ、十四世紀から十五世紀には、台頭してきたタイのアユタヤ朝にたびたび攻略されて王都アンコールは荒廃した。そのアユタヤはのちにビルマに滅ぼされた。

一四三四年ごろ、アンコールの都が放棄された。タイとの国境に近く侵略を受けやすかったのがその理由であり、その後は西からはタイのアユタヤ朝やバンコク朝、東からはベトナムに領土を蚕食されながら転々と王都を移すという苦難の時代がつづいた。

一八四一年、ベトナムに一時国土を併合された。ところがこれにはタイが反発し、一八四七年にアン・ドゥオン国王が即位して主権を回復した。しかし実質的にはタイとベトナムの両方に従属する状態であった。この二重属国状態を脱するため、アン・ドゥオン国王はアジアに進出してきたフランスに接近し、一八六三年にノロドム国王がフランスと保護国条約を結んでことでフランスの支配下に入った。

一八八七年にカンボジア、ラオス、ベトナムの三国からなるフランス領インドシナ連邦が成立し、カンボジアは完全に植民地化された。この連邦は仏印(ふついん)と日本では呼ばれた。

     
日本軍の進出

一九四一年(昭和十六年)十月、シアヌーク国王が十八歳で即位した。同年十二月、日本軍は米、英、蘭の連合国に宣戦布告して南方へ進出、東南アジアは激動の時代を迎えた。

そのとき仏印はドイツの協力政権であるフランスのビシー政権の統治下にあったので、ドイツと同盟関係にある日本軍と仏印当局との間に大きな戦闘はなかった。しかしドイツの敗退でビシー政権が崩壊したとき、仏印のフランス軍が米英に寝返ることをおそれた日本軍は、フランス軍の武装解除をおこない行政権を接収した。

一九四五年(昭和二〇年)三月十二日、日本はシアヌーク国王にカンボジアの独立を宣言することを勧め、国王はフランスとの保護国条約の無効と、カンボジアの主権回復を宣言した。こうして日本の仏印処理の結果カンボジアは独立したかに見えたが、日本の無条件降伏で水泡に帰してしまった。

第二次大戦後、シアヌーク国王はカンボジアの独立運動をおし進め、一九四九年、フランス連合の枠内での限定的な独立を達成した。そしてさらに世界各地でカンボジアの状況を国際世論に訴えて回り、一九五三年ついにフランスの譲歩を引きだすことに成功し、同年十一月九日に完全独立を勝ちとった。武力を用いず、ねばり強い外交交渉のみで独立を果たしたシアヌーク国王の手腕は見事だと思う。血を流していないため独立後もフランスとの関係はそれほど悪くなっていない。

そのころ国王は日本にも来ているが、日本滞在中も観光などせず、終日ホテルに閉じこもって大量の電報を読んでは指示を与える、ということに専念していた。彼の頭にはカンボジアの独立のことしかなかったのである。ところがそうして勝ちとった独立であったが、待ち受けていたのは平和と繁栄ではなかった。この国はつくづく悪魔に魅入られた国であったと思う。悪魔の手先は米国、ソ連、中国であった。

   
ベトナム戦争とポル・ポト虐殺政権

一九七〇年、外遊中のシアヌーク国王は、クーデターで権力を掌握したロン・ノル将軍に国家元首を解任された。これにはアメリカが関与していたといわれ、中立政策をとっていたシアヌーク国王が失脚したことで、カンボジアはベトナム戦争に巻き込まれて国が戦場となり、内戦も激化し、国民は塗炭の苦しみを味わうことになった。

米軍がベトナム戦争中にカンボジア国内に投下した爆弾は、大平洋戦争で日本に投下した量の一・五倍とか三倍とかいわれ、そのことがポル・ポトひきいる共産主義勢力クメール・ルージュの勢力拡大につながった。そのアメリカは一九七三年にベトナムから敗退した。

一九七五年四月十七日、クメール・ルージュを中心とするカンプチア民族統一戦線がプノンペンに入城し内戦は終結した。ところが政権を握ったポル・ポト派が不可解な共産主義政策を強行したため、国内はさらに混乱におちいった。

ポル・ポトは毛沢東思想に心酔し、中国の文化大革命のまねをしたと言われている。彼は農本主義を掲げて、宗教活動の禁止、学校教育の禁止、市場と通貨の廃止、都市住民の農村への強制移住、人民公社の設置と集団生活の強制、などのことを推し進め、従わない者やじゃまになる者は殺した。このとき支配階級や知識階級が集中的に殺害され、知識階級の消滅はカンボジア復興の大きな妨げになった。また寺院や仏像も破壊され、僧は還俗させられたり殺されたりした。

ポル・ポト政権下の三年八ヵ月のあいだに一七〇万人が虐殺されたといわれており、当時のカンボジアの人口は八百万人ほどなので、殺害された人の割合はその二〇パーセント以上に達したのであった。そのため「正直な人やいい人はみんな殺された。ウソをつかなければ生き残れなかった。昔はウソをつく人などいなかったのに、今はウソつきばかりになってしまった」とカンボジア人自身が嘆く国になってしまったのである。

     
ベトナムの侵攻

一九七八年、ポル・ポト政権と対立していたベトナムが、カンボジアに侵攻し首都プノンペンを占領した。そのためポル・ポト政権はタイ国境の山岳地帯へ逃走し、それと同時に大量の難民がタイ国境に押しよせた。このとき私もカンボジア難民救援のため、タイ国内の難民キャンプを訪問したことがある。

一九七九年、ベトナムに支援されたヘン・サムリンが「カンプチア人民共和国」の樹立を宣言、一方のタイ国境に逃れたポル・ポト派、ソン・サン派、シアヌーク派の三派は、「民主カンプチア連合政府三派」を結成してヘン・サムリン政権に対抗した。

こうしてカンボジアを実効支配するヘン・サムリン政権(ソ連とベトナムが支援)と、タイ国境の連合三派(中国と東南アジア諸国連合が支援)の、二つの政権が併存して対立したことで内戦は長期化した。結果的にはベトナムはポル・ポトの虐殺政権から人々を解放したことになるし、タイは難民を受け入れることで多くのカンボジア人を救ったのであるが、この両国に対してカンボジア人は決してよい感情をもっていない。

一九八九年、ソビエト連邦が崩壊し東西冷戦が終結したことで事態は大きく動いた。これによりベトナムはソ連という後ろ盾を失って行き詰まり、中国との関係が改善されたこともあり、ついにカンボジアから撤退した。

このあとは国連主導の時代である。国連はカンボジアの治安回復と復興のため、最大で六千人の文民と一万六千人の軍人を派遣した。現地における活動の責任者は日本人の明石康氏であった。そして一九九三年五月に総選挙が行われ、同年九月に二三年ぶりの統一政権、シアヌーク国王を国家元首とする新生「カンボジア王国」が誕生した。

二〇〇四年の調査によると、カンボジアの仏教寺院数は四〇六〇、僧の数は五九、七三八人、とほぼ内戦前の数にまで回復したとある。人々の心のより所である仏教は最優先で復興されたようである。

カンボジアの現代史を読んでいると、シアヌーク前国王の存在の大きさに驚かされる。この人がいなければカンボジアはどうなっていたことかと思う。理想の王様のことをインド人は転輪聖王(てんりんじょうおう)と呼んでいたが、彼には転輪聖王の資格があるかもしれない。

参考文献
「地球の歩き方。アンコール・ワットとカンボジア。06〜07」ダイヤモンド社
「カンボジアを知るための60章」上田広美、岡田知子 2006年 明石書店
「カンボジア風土記」今川幸雄 2006年 連合出版 
「激動のカンボジアを生きぬいて」ヌオン・パリー 平成17年 たちばな出版
「カンボジアの民話世界」高橋宏明 2003年 株式会社めこん
「地雷の村で寺子屋づくり」今関信子 2003年 PHP研究所

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