南嶽懐譲禅師の話

南嶽懐譲(なんがく・えじょう。六七七〜七四四)禅師は、山東省金州の出身、俗姓は杜(と)氏、十五歳のとき湖北省荊(けい)州の玉泉寺で弘景律師により出家受戒し、まず律蔵を学んだ。ところがある日、懐譲は歎息して言った。「出家したのは無為の法を悟るためではなかったのか」

懐譲のこころざしの高邁なることを同学の坦然(たんねん)という人が知り、嵩山(すうざん)の慧安(けいあん)和尚に逢うことを勧めた。すると慧安和尚は自ら懐譲を指導啓発したのち、曹渓の六祖大師の元に行かせた。六祖が懐譲に問うて言った。

「いずれの所よりか来たる」

「嵩山より来たる」

「何物がここへこうしてやって来たのか」

「説似一物、即不中(せつじいちもつ・そくふちゅう。ひと言でも説けば即ち当たらず。伝灯録ではすぐに答えたことになっているが、長くこの問いに参じたあとの答えではないかと思う)」

「それは修行したり悟ったりすべきものか」

「修行や悟りが不要とは言わず。しかしあれこれ求めて心を汚染すれば得ることはできない」

「この不汚染は諸仏の護念するところなり。汝すでにかくの如く、我れもまたかくの如し。天竺の般若多羅尊者が汝のことを予言している。足下より一頭の馬駒(ばく)が出て、天下の人をけ散らすであろうと」

懐譲禅師は十五年間、六祖に参じてその法を嗣ぎ、七一三年に南嶽の般若寺に住して馬祖道一禅師を育てた。一頭の馬駒とは馬祖のことである。湖南省にある南嶽は中国五岳のひとつであり、衡岳(こうがく)あるいは寿岳とも呼ばれる。なお懐譲禅師と青原行思(せいげん・ぎょうし)禅師の二人は六祖大師の二大弟子とされているが、中国禅の主流になったのは懐譲禅師の法系であった。

西紀七四四年八月十一日、唐の玄宗皇帝のとき懐譲禅師は南嶽で円寂、世寿は六八、大慧禅師、最勝輪之塔と諡された。

出典「景徳伝灯録、巻五、南嶽懐譲禅師」「宋高僧伝巻九」

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