趙州和尚の話
趙州従しん(じょうしゅう・じゅうしん。七七八〜八九七。しん:言の右に念)禅師は、唐の時代の山東省曹州の生まれ、俗姓はカク(赤の右におおざと)氏、幼くして曹州の寺で出家し、まだ具足戒を受けない沙弥(しゃみ。小僧さん)のとき南泉普願(なんせん・ふがん)禅師に参じた。
趙州が挨拶に行くと、南泉和尚は横になったまま対面し質問した。
「どこから来た」
「瑞像院から来ました」
「それでは瑞像を見てきたかな」
「瑞像は見ませんが寝転がっている如来を拝みました」
こいつ油断のならん小僧だと南泉和尚は起きあがり、さらにたずねた。
「お前さん、師匠はあるのか」
「ございます」
「どこの誰だ」
「大寒の候、お師匠さまにはますますご健勝のことと、お慶びを申し上げます」
南泉和尚は趙州を法の器とし参禅を許した。
ある日、趙州が南泉和尚に質問した。
「如何なるかこれ道(どう)」
「平常心(へいじょうしん)これ道」
「また趣向(しゅこう。心を向ける。求める)すべきや」
「向かわんとすれば、即ちそむく」
「向かわないのに、どうして道だと知るのでしょう」
「道は知と不知に属さず。知はこれ妄覚、不知はこれ無記。もし真に不疑の道に達すれば、天空のからりと晴れわたって開けるが如し。強いて是非すべきことにあらず」
趙州は言下に理を悟った。
趙州和尚は嗣法ののち悟後の修行のため行脚に出た。そのとき次のことを自戒の言葉とした。「七歳の童子といえど、我れに勝れる者には教えを乞おう。百歳の老翁といえど、我れに及ばない者には教えよう」
そして八〇歳で河北省趙州の観音院に住し、亡くなるまでの四〇年間そこで独自の禅風を挙揚した。趙州の名はこの地名からきている。趙州和尚は法眼の明らかな境界(きょうがい)の円熟した人であった。また言葉で法の第一義をずばりと示す名人であり、そのため唇から光を放つとか、趙州の口唇皮禅(くしんぴぜん)などと言われた。観音院での生活は枯淡そのものであり、坐禅をする椅子の脚が折れても新しい椅子は作らず、薪を縄でしばりつけて使っていた。
八九七年十一月二日、趙州和尚は右脇を下にして亡くなった。世寿百二十、真際大師と諡された。
ここからは趙州和尚の逸話である。
ある僧が趙州和尚に質問した。
「私はこの道場に来たばかりです。ご指導をお願いします」
「朝のお粥を食べたかな」
「はい、食べました」
「ならばお椀を洗いなさい」
その僧は開悟した。(無門関七則、趙州洗鉢)
僧が趙州和尚に質問した。
「犬にも仏性がありますか」
「有る」
「仏性があるなら、どうしてあんな皮袋に入っているのです」
「知ってことさらに犯すがためなり」
別の僧が質問した。
「犬にも仏性がありますか」
「無い」
「一切衆生みな仏性あり、と言います。犬にはどうして無いのです」
「かれに業識(ごっしき。業の障り)のあるがためなり」(従容録十八、趙州狗子)
一番弟子の厳陽(げんよう)尊者が質問した。
「一物も無いときは如何でしょう」
「放下(ほうげ)せよ」
「一物も持っていないのに何を放下するのです」
「ならば背負っていけ」(従容録五十七、厳陽一物)
ある人が質問した。
「和尚もまた地獄に入ることがありますか」
「老僧が真っ先に入る」
「大善知識がどうして地獄に入るのです」
「入らなければ誰がお前さんを救うのだ」(趙州録上)
僧が質問した。
「如何なるかこれ真実人の体」 「春、夏、秋、冬」
「何のことか、私には分かりません」
「汝、真実人の体を問うたではないか」(趙州録中)
ある老婆が問うた。
「女人には五つの障りがあるといいます。どうしたら救われましょうか」
「願わくは、一切の人の天に生ぜんことを。願わくは、婆々のとこしなえに苦海に沈まんことを」(趙州録中)
二人の新到(しんとう。新たに道場にやって来た僧)が挨拶に来た。和尚が問うた。
「そなたは以前この道場に来たことがあるかな」
「来たことはありません」
「喫茶去(きっさこ。お茶を飲みなさい)」
もうひとりの僧に聞いた。
「そなたは来たことがあるかな」
「前に来たことがあります」
「喫茶去」
院主(いんじゅ。事務係の僧)が問うた。
「和尚、初めて来た僧にお茶を出すのはよいとしても、どうして来たことのある僧にもお茶を出すのです」
「院主」
「はい」
「喫茶去」(趙州録下)
和尚が弟子の文遠(ぶんおん)と論議した。論議に勝った方が負け、ということで餅をおごる約束であった。
まず和尚が言った。「我れは一頭のろば」
文遠「我れはろばの手綱」
和尚「我れはろばの糞(フン)」
文遠「我れは糞の中の虫」
和尚「汝、糞の中で何をする」
文遠「われ糞の中で夏(げ。修行の期間)を過ごす」
和尚「餅を持ってきなさい」(趙州録下)
一日、趙州和尚が外掃除をしていると、ある人が質問した。
「和尚はこれ善知識なり。なんとしてか塵ある」
「外より来たる」
別の人が言った。
「清浄の伽藍(がらん。寺院)になんとしてか塵ある」
「またひとつ来た」(伝灯録)
僧が質問した。
「久しく趙州の石橋(せっきょう)のうわさを聞く。来てみればただ丸木橋を見るのみ」
「汝はただ丸木橋を見て、趙州橋を見ず」
「如何なるかこれ趙州橋」
「ろばを渡し、馬を渡す」
「如何なるかこれ丸木橋」
「個々に人を渡す」(伝灯録)
ある日、趙(ちょう)の国王が諸子をつれて観音院にやって来た。趙州和尚は禅床(ぜんしょう。坐禅するための座)に坐ったまま王に問いかけた。
「大王、お分かりいただけますか」
「何のことでしょう」
「小より出家して身はすでに老い、大王が来られても禅床から下りる力さえないのです」
国王は納得し、丁重に挨拶を交わすと帰っていった。
翌日、国王の伝言を持って将軍がやって来た。趙州和尚は禅床を下りて伝言を聞いた。将軍が帰ると侍者がきいた。
「和尚、大王が来たときは禅床を下りず、将軍が来たときにはどうして禅床を下りたのです」
「汝の知るところにあらず。第一等の人が来れば坐ったままで接し、中等の人がくれば禅床を下りて接し、末等の人が来れば門まで出迎えて接す」(伝灯録)
ある日の説法で言った。
「修行者はうろうろしていてはならない。必要があれば質問や問答をするがよい。それでなければ禅堂で坐禅をして理をきわめるがよい。老僧行脚の時、それ以外のことに心を用いたことはない。ただし斎粥(さいしゅく。朝昼二回の食事)は心を使うべきときで、これは仕方がない。このような心境にならなければ、とても出家とは言えない」(趙州録上)
説法のときに言った。
「一心生ぜずんば、万法咎(とが)無し。ただ理を究めて坐すること二、三十年せよ。それでも会得できなければ、老僧が首を切りとれ」(趙州録中)
出典「景徳伝灯録巻十、趙州従しん禅師」「宋高僧伝巻十一、唐趙州東院従しん伝」「趙州禅師語録」「無門関」「従容録」
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