四祖道信大師の話

四祖道信(しそ・どうしん。五八〇〜六五一)大師は、湖北省広済県の生まれ、俗姓は司馬氏、生来なみはずれて優れた人であり、常に禅定を修して横にならず、脇(わき)席に至らざること六〇年と伝えられる。また幼くして仏法の解脱の教えを慕うさまは前世の宿縁のようであり、はたして十三歳で三祖に師事し法を嗣いで中国禅宗の四祖となった。

隋の時代に吉州(きっしゅう。江西省中部)に住していたとき、町が盗賊の群れに包囲され、七〇日たっても囲みが解けないことがあった。人々が恐れおののくのを見て四祖は哀れに思い、摩訶般若を念ずることを教えた。するとそれ以後、盗賊たちが城壁を見上げると、町を守っている神兵の姿が見えるようになり、盗賊たちは「これは城内に異人がいるに違いない。攻めるのは危険だ」と言って引き上げていった。

唐の時代の西紀六二四年、四祖が双峰山(そうほうざん)に住するとその膝下に修行者が雲のごとく集まり、その数は五百人になった。中国で多数の修行者が一人の師のもとに集まるのは四祖に始まるという。この山はもとは破頭山(はとうざん)と呼ばれていたが、四祖が山名を双峰山に変えたのであり、また四祖が住したことから四祖山とも呼ばれ、五祖の東山(とうざん)に対して西山(せいざん)とも呼ばれる。

あるとき四祖は黄梅(おうばい)県へ行き、そこで一人の子供に出会った。その骨相はすこぶる秀でており並みの子供ではなかった。四祖は沈黙してしばらく見つめていたが、その子供が法の器であることを見てとると、侍者を家に行かせて出家させるように父母に頼み、父母は出家すべき子と分かっていたので反対することなく弟子にさせた。大師はその子供に弘忍(ぐにん)の名を授け、のちに達磨大師から伝わった衣法(えほう)を伝授した。これが五祖弘忍大師である。

六四三年、唐の太宗(たいそう)皇帝が四祖の道風を聞き、ぜひ逢いたいと招いたが四祖は病気を理由に三たび固辞した。皇帝は四度目の使いに命じて言った。「今度ことわったら首を取ってこい」。勅使が皇帝の旨を伝えると、四祖は顔色ひとつ変えず悠然と首をつき出し、驚いた勅使が書状で報告すると、皇帝はさらに敬慕を加え高価な絹を送った。

西暦六五一年九月四日、四祖はにわかに門人を集めて言った。「一切の諸法ことごとく解脱す。汝ら各自に護念して未来を感化せよ」。そして安坐したまま逝去した。寿は七二、代宗帝が大医(だいい)禅師、慈雲之塔の名を贈った。

出典「景徳伝灯録巻三、第三十一祖道信大師」

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