牛頭法融禅師の話
牛頭法融(ごず・ほうゆう。五九四〜六五七)禅師は、江蘇省(こうそしょう)延陵の生まれ、俗姓は韋(い)氏、初め儒教を学び群書に通じたが、のちに般若経典を読んで空の理を知ると嘆息して言った。
「儒道は世俗の教えにして究極の教えにあらず。般若は出世間の渡し船なり」
そして茅山(ぼうざん)において出家し、江蘇省江寧県の南にある牛頭山(ごずざん)へ行き、寺の北方にある石窟に隠棲した。牛頭山という山名は二峰の並びそびえる姿が牛の頭に似ていることに由来する。
四祖道信(しそ・どうしん)禅師が、気象を観察して遠く牛頭山に奇異な人のあることを知り、牛頭山へ行き寺の僧にたずねた。
「この辺りに道人(どうにん)ありや」
「出家した人はみな道人ではないか」
「道人とはどなたのことかな」
その僧は答えなかった。別の僧が言った。「これより十里ほど山へ入った所に、一人の横着者が隠棲している。人を見ても立ち上がりもせず合掌もしない。それが道人かもしれない」
四祖が山に入って法融を見るに、泰然自若と正身端坐(しょうしんたんざ)するのみでこちらを見ようともしない。四祖が問うて言った。
「ここで何をしておられる」
「心を観じている」
「観るはこれ何人(なにびと。なんぴと)ぞ。心はこれ何物ぞ」
法融は答えることができなかった。彼は立ち上がって四祖を礼拝し、それからたずねた。
「大徳はどこに住んでおられるのか」
「貧道(ひんどう。拙僧)止まる所を定めず。あるいは東へ行き、あるいは西へ行く」
「道信禅師という人をご存じか」
「どうして彼のことを聞くのか」
「徳を仰ぐこと久し。一度お逢いしたいと願っております」
「道信は貧道これなり」
「なぜここにお出でになったのです」
「特別の用があって来た。落ちついて話のできる場所はあるかな」
「向こうに小さな庵があります」
こうして四祖は、三祖より伝えられた頓悟の法門を法融禅師に伝え、付法しおわると双峰山(そうほうざん。四祖山)へ帰り老いを終えた。法融禅師が坐禅をしていると、鳥が競って花を運んで来てまき散らしていたが、正法を伝えられてからは来なくなったという。法融禅師は伝教大師最澄が日本に伝えたとされる牛頭禅の祖である。
西暦六五七年一月二三日、法融禅師は六四歳で亡くなり、鶏籠山(けいろうざん。現鶏鳴山)に葬られた。牛頭山にはその旧居や遺跡が今も残っているという。
牛頭山初祖法融禅師の心銘
法融禅師の心銘(しんめい)の一部をご紹介する。不生不滅なる本心を明かしたものである。
「心性は不生なり、何ぞ知見をもちいん
本より一法も無し、誰か熏錬(くんれん。修行)を論ぜん
往復するも端なし、追尋するも見えず
一切作すことなくんば、明寂自ずから現ぜん」
「本より取るべきもの無し、今何ぞ棄てることを用いん
有を言えば魔おこり、空を言えば象(かたち)備わる
凡情を滅するなかれ、ただ意を息(や)めよ
意なくんば心滅し、心無くんば行(ぎょう)滅す
空を証することを用いず、自然に明徹せん」
「実に一物もなく、妙智のみ独り存す
本際(ほんさい。真理の世界)は虚冲(きょちゅう。私心なくおだやか)にして、心の窮まる所に非ず
正覚に覚なく、真空も空ならず
三世の諸仏は、皆この宗に乗ず」
「慧日は寂寂たり、定光は明明たり
無相の苑を照らし、涅槃の城を朗(あきらか)にす
諸縁を忘じおわれば、神(しん。心)を詮(せん。あきらかに)し、質(しつ。本質)を定めん
法座を起たずして、虚堂(きょどう。空のお堂)に安眠す
道を楽しんで恬然(てんぜん。安らか)たり、真実に優游(ゆうゆう。ゆったりとするさま)たり
為すこと無く得ること無く、無によって自ずから出ず
心もし不生なら、法に差互(さご。誤り)なし
生と無生を知らば、現前(げんぜん。まのあたり)常住なり
智者はまさに知る、言詮(ごんせん。言説)に非ずして悟ることを」
出典「景徳伝灯録巻四、牛頭山第一世法融禅師。巻三十、牛頭山初祖法融禅師の心銘」
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