生死の話

ある檀家さんを訪ねたとき、家族の一人が見違えるほどに痩せていたので驚いたことがあった。「ガンのためしばらく入院していた。手術で一応取り除いたが転移していて完全には取れなかった。もう長くはない」と本人が言う。まだ若いことでもあり慰めの言葉もなかった。

死がまちがいなくやって来るという点では、人間も屠殺場に引かれていく動物と大して変わりはない。そして病気や老いや死などからくる痛みも不安も悲しみも、人に代わってもらうことはできない。誰しもひとりで苦しみ、ひとりで死んでいくのである。

唐の時代の中国に馬祖道一(ばそどういつ)禅師という人がいた。牛のように歩き、虎のように視る、舌を出せば鼻の上まで届く、という人であり、一三九人のすぐれた弟子を打ち出した大和尚である。その馬祖大師の臨終間近というとき、見舞いにきた弟子がたずねた。

「和尚、おかげんは如何ですか」

大師がこたえた。「日面仏、月面仏(にちめんぶつ、がちめんぶつ)」

問答はこれだけである。日面仏は太陽を象徴する寿命千八百歳の長寿の仏さま、月面仏は月を象徴する寿命一日一夜の短寿の仏さま、ともに三千仏名経(さんぜんぶつみょうきょう)に出てくる仏さまである。この問答は臨終間近の苦しい息の下での馬祖大師の最後の説法であるが、何を言いたいのであろうか。

長命であろうが短命であろうが、仏さまであることに違いがないように、病気であろうが、断末魔の苦しみの中にあろうが、すべて仏さまの姿である。衆生本来仏なりであり、純金で作られたものは何であろうとすべて純金である、そう言いたいのであろうか。

この話に「黄河、徹底濁る」という語をつけた人がいる。黄土地帯から流れてくる黄河の水は底の底まで濁っている。それと同じように、痛いときは徹底痛い、苦しいときは徹底苦しい、それが仏さまの三昧である。

だから目をそむけたり逃げたりせずに、痛みをそのまま受けいれ、痛みになり切っていく、それが痛みに対処する方法なのである。もっと苦しくなれ、どこまで耐えられるか試してみよう、というのも痛みや苦しみに対処するひとつの方法である。良寛さんも言っている。「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候」

参考文献「碧巌録第三則馬大師不安」「従容録第三十六則馬師不安」

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