怒りの話
嫌いなことに反発する心、毒薬のように自他ともに苦しめ損なう煩悩、それが怒りである。ここではその怒りに関係する教えを、まず仏典の中からいくつかご紹介し、それから具体的な怒りの解決法を探ってみる。
中部経典第二一に「のこぎりの譬え」という教えがある。その教えの内容はとても実行不可能と思われるようなことであるが、あるいはこれが怒りに対する釈尊の基本姿勢だったのかもしれない。
「たとえ凶悪な盗賊たちにノコギリで手足を切断されようとも、決して怒りの心を持ってはならない。心を動揺させてはならない。悪しき言葉を発してはならない。心優しき者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私たちは生きなければならない。自分を傷つける者に対しても、すべての命に対しても、無量の、怨みのない、無害な、慈しみの心で接していかねばならない」
同じ経典に「大地の譬え」も載っている。
「たとえば人がこの広い大地を破壊してやると言って、鋤(すき)と籠でもって次から次へと掘り返し、次から次へとまき散らし、次から次へと唾を吐き、次から次へと小便をかけたとする。それについてどう思うか。その人はこの広い大地を破壊することができるだろうか」
「そうではありません。尊師」
「それは何故か」
「尊師、この大地は限りなく広く深いからです。それを破壊するのは容易ではありません。その人はただくたびれるだけです」
「大地と同じように、あなた方は決して心を動揺させず、悪しき言葉を発せず、心やさしき者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、生きなければならない。大地のように、増大した、増幅した、無量の、怨みのない、無害な、慈しみの心で接するように、自らを戒めなければならない」
怨みは捨ててこそやむ
岩波文庫の「ブッダの真理の言葉。法句(ほっく)経」には、次のような教えが載っている。
「彼は私をののしった。私を害した。私にうち勝った。私から強奪した、という思いをいだく人に怨みはやむことはない」四節
「怨みに報いるに怨みをもってしたならば、怨みはやむことはない。怨みを捨ててこそ怨みはやむ。これは永遠の真理である」五節
「われらはここにあって死ぬはずのものであると覚悟しよう。このことわりを他の人々は知っていない。このことわりを知る人々があれば争いはしずまる」六節。(だから不浄観を修行すれば怒りを根治できるという)
「他人の過失を見るなかれ。他人のしたことと、しなかった事を見るなかれ。ただ自分のしたことと、しなかった事だけを見よ」五〇節
「怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。無一物になった者は苦悩に追われることがない」二二一節
「他人の過失を探し求め、つねに怒りたける人は、煩悩の汚れが増大する。彼は煩悩の汚れの消滅から遠く隔たっている」二五三節
「怒らないことによって怒りにうち勝て。善いことによって悪いことにうち勝て。分かち合うことによって物惜しみにうち勝て。真実によって虚言の人にうち勝て」二二三節
「真実を語れ。怒るな。請われたならば、乏しいなかから与えよ。これらの三つの事によって神々のもとに至りうるであろう」二二四節
「生き物を殺すことなく、つねに身を慎んでいる聖者は、不死の境地におもむく。そこに至れば憂えることがない」二二五節
なお「怨みに報いるに怨みを・・・」の第五節は、一九五一年のサンフランシスコ講和会議で、スリランカ代表のジャヤワルダナ蔵相(のちの第二代大統領)が演説に引用したことで知られるようになった。その会議は、太平洋戦争で敗北し連合国の占領下にあった日本の処分を決めるための会議であり、彼はそのときこの言葉を引用して日本の主権回復を支持し、さらに対日賠償請求をスリランカが放棄することを宣言したのであった。スリランカは熱心な仏教国である。
悪業の消滅
つぎは金剛経の一節である。
「もし人の為に軽賎(きょうせん)せられんに、この人先世の罪業(ざいごう)ありてまさに悪道(あくどう。地獄、餓鬼、畜生の世界)に堕すべきに、今世の人に軽賎せらるるを以ての故に、先世の罪業すなわち消滅す」
ばかにされたり、いじめられても、腹を立ててはいけない、かえって相手に感謝しなさい、それは自分の罪滅ぼしになることなのだから、というのである。達磨大師の二入四行論(ににゅうしぎょうろん)にはもっと具体的に書いてある。
「苦を受けるときまさに自ら思うべし。我れはるかな昔から、本をすてて末に従い、あらゆる所を流浪して多くの怨み憎しみをおこし、人を害すること限りなし。今は犯すこと無しといえども、これ我が悪業の結果にして、天が悪いのでも人が悪いのでもない。与えられた所を甘受し恨むことなかれ。
衆生は我なくして業縁(ごうえん)に転ぜられ、苦楽を受けるはみな縁より生ず。もし勝報栄誉などのことを得るも、これ我が過去の因によるものにして、今まさにこれを得るも縁尽きれば無にかえる。何の喜ぶことあらん。得失は縁にまかせて心に増減なく、喜風に動ぜざれば道にかなう。
世人は迷ってあらゆるものを貪りそして執着する。これを求と名づく。知者は真を悟り、安心無為(あんじんむい)にして願うこと無し。この世界は火宅(かたく)の如きであり、身が有るのは苦である。だから誰か安きことを得ん。このように達観するゆえに、あらゆるものを捨て、想を止めて求むること無し。求むることあればみな苦なり。求むること無きは即ち楽なり」
チベット仏教から
次にチベット仏教の指導者ダライラマの言葉をご紹介する。チベット仏教では「怒りは悪」と単純にはとらえていないようである。
「敵あるいは我々に害をなすものは尊敬に値する者たちであり、寛容と忍耐を実践する機会を与えてくれる得難い師である。このように考えることで悪しき感情、とくに憎しみを軽減できるはずである」
「慈愛に満ちた心に動かされたときには、ある場合において怒りは有用なものとなりうる。なぜなら怒りはわれわれにエネルギーを与え、迅速なる行動を可能にするからである」
「力をもって悪行を思いとどまらせる以外に方法がないこともある。これが仏教に忿怒の形をとった諸仏が存在する理由である。しかしながら一般的には怒りは憎しみになる。憎悪これは常に悪しきもの、邪悪な意思のたまり場である」
「怒りは時として有益なものと感じる。憎しみがふだんにはないエネルギーと大胆さをもたらしてくれるからで、困難に直面したときには怒りが守護神のように見えるかもしれない。しかし怒りが大きなエネルギーを与えてくれたとしても、それは本質的には盲目のエネルギーでしかない。破壊的なものに変容しないという保証はない」
「怒りや憎しみではなく智慧と常識で対抗すべきである。智慧にもとづく行動は、怒りに導かれたものよりはるかに実効的である。怒りのさなかに取った対抗手段は往々にして失敗する」
「怒りや憎しみの感情を克服する有効な手段のひとつは、それに対抗する力、愛や慈悲心という人間の善き性質を開拓することである」
「忍耐力をつちかうために、意識的に他者の苦しみを引き受けるという方法もある。短期的には欠乏、困難、苦悩であったとしても、長期的な視野に立っての成果を望むため、わざとそれらを我が身に引き受けるのである」
「ここでチベットの情勢から学んでみよう。チベット問題のためにわれわれは純粋に非暴力と慈悲心にもとづく方法を採用してきた。これは侵略者に平身低頭し屈服することを意味しない。われわれは怒りや憎しみによらないより有効な方法をとっているということである」
なおチベット問題とは、中国がチベットを武力で侵略占領し、チベット人を迫害殺害し、植民政策によりチベットの中国化を進めている問題をいう。そのためすでに首都のラサでは中国人の方が多数になっているという。
怒りの利用法
ここからは仏教以外の本から学んだ怒り対策法である。
仏教では怒りは良くないものとされているが、怒りはだれにでも備わっている感情であるから、怒りにも存在する価値と理由があるはずである。怒りがこみ上げてくるのは笑いがこみ上げてくるのと同様生きている証拠であり、怒りが発生するのは快適に生きていく上で何か障害があることを意味している。すべての生き物は自分を守る本能から怒るのである。
また怒りは瞬間起爆剤のようなものなので、これをうまく利用すれば物事を一気に良い方へ進めることができる。怒りを前向きの力に転換すれば、活気に満ちた陽性の人生を送れるのであり、怒りは自分を変えたり向上させるために必要な感情でもある。
自分が怒っていることに目をつむり、怒りをため込んでしまうのはよくない。怒りをため込むと身心を破壊したり、怒りが爆発して取り返しのつかない事態を招いたりすることにもなる。だから怒りが憎悪に変化する前に、自分が腹を立てていることを認めて怒りを明るみに出し、憎悪に成長させないことが大切である。つまり怒りと憎しみを別のものと考えて対処するのである。
怒りを活用するには冷静さが必要であり、冷静になるには時間が必要である。自分が怒っていることを自覚したら、まず怒りを一段落させなければならない。怒りを静めて冷静になるには、深呼吸して一から十まで数えるとか、とりあえず場所を移動するとか、高所から自分を眺めるようにする、などの方法がある。
そしてそれから状況を冷静に分析する。自分がもめ事の原因を作っていることもあれば、双方ともに非があることもある。必要な怒りもあれば不必要な怒りもある。怒ることで生じる良い結果もあれば悪い結果もある。そういったことを冷静に分析し、それから自分が怒っていることを静かに相手に伝えるのである。
怒りの伝え方
「売りことばに買いことば」で怒りをそのままぶつけると必ず後悔することになる。怒りはぶつけるものではなく伝えるものであり、さらにどう伝えるかも重要である。相手や自分や周囲の人を傷つけないように前向きに表現しなければならないのであり、怒りを、皮肉、反抗、暴力、ごまかし、体の不調、といったゆがんだ形で表現すると、かえって人間関係をそこない事態を悪くしてしまう。またとことん相手を追いつめるのもよくない。
怒りを伝えるときには「わたし」を主語にする方がよい。つまり「お前はこんなことをした。お前はいつもそうだ」ではなく、「私はあなたがした事をこのように感じている。私はこのような不愉快な思いをして、このように怒っている」というように、「私は」で表現するのであり、これはきわめて有効な表現法である。
また相手の言葉全体を否定するのではなく、部分否定で指摘すると相手が受け容れやすくなる。この部分だけこうして欲しいと、できるだけ柔らかな表情と物腰で指摘するのであり、これも有効な自己主張法である。
自分が怒っていることを人から伝えてもらう方法もある。相手が素直に言うことをきく人に忠告してもらうという、からめ手攻撃である。
怒りの解決法
怒りと上手に付き合っていくには、怒りを憎しみに発展させないことが大切である。怒りの裏には痛みがある。その痛みを取り除かないと怒りが憎しみに発展してしまうから、そうなる前に原因を取り除かなければならないのである。だから、やりたくないことをやらなくてすむ方法を探す、「私は」の表現でもって断る、「ここの所を」と変更を提案する、嫌な人間から遠ざかる、などのことを考えるべきである。
人から侮辱されたら天使のように穏やかに、そしてきっぱりと反論する。「あなたの言うことは分かるけど、私はそうは思いません」
誰かに話を聞いてもらうと、怒りの牢獄から自分を解放できる。これは有効な治療法である。
腹の立つことの一覧表を作り建設的な解決策を探ってみる。正面から問題に向きあってみると、敵は意外に張り子の虎だったりする。
怒りの原因を考えてみる。怒りの多くは無知から生まれ、無知の最たるものは自分はいつも人から大切にされて当然と考えること。だから自分は特別な人間ではないと納得すれば気楽に生きられる。
怒りは自他の対立から生まれる。怒りとまでいかなくても細かな自他の対立のために私たちは常に苦しめられている。自己の本心に目覚めて主客対立のない世界にたち帰れば、根底からこうしたことを解決できる。
ここまでは自分の怒りに対処する方法を述べてきた。相手が怒っている場合の対処法は基本的にはこの裏返しである。
参考文献
「ブッダ。真理のことば。感興のことば」中村元訳 1978年 岩波文庫
「怒りの無条件降伏。中部経典ノコギリのたとえを読む」アルボムッレ・スマナサーラ長老 日本テーラワーダ仏教協会
「空と縁起」ダライ・ラマ 同朋者出版 1995年
「怒りに効くクスリ」WAVE出版 2003年
「上手な怒り方」佐藤綾子 PHP研究所 2005年
「カッとしたときに、気持ちをうまく伝える方法」ジュディ・フォード ダイヤモンド社2002年
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