白隠禅師の施行歌
施行歌(せぎょううた)は、仏教の最重要の徳目である布施の功徳を説く歌であるが、白隠禅師がこの歌を作った目的は、布施の功徳を人々に知ってもらうためというよりも、飢饉で多くの餓死者が出ている状況において、貧しい人々を救うための浄財を緊急に集めることにあったようである。
そのためであろうが、「富貴さいわいある人は、貧者に施しせらるべし。貧者に施しせぬ人は、富貴でくらすかいもなし」とあるように、特に富貴な人に布施行を勧めており、「この節信心起こらねば、まったく牛馬にことならず」とまで言っている。
江戸時代は全体を通じて寒冷な気候の時代であった。そのため寛永、享保、天明、天保の四大飢饉に代表される多くの飢饉が発生し、白隠禅師はそうしたときの救援活動も熱心におこなっていたのである。この歌は禅師の仮名法語の中でいちばん出版回数の多いものであり、そのため異本が三三あるという。
施行歌(せぎょううた)
今生(こんじょう)富貴する人は、前世に蒔きおく種(たね)がある、
今生施(ほどこ)しせぬ人は、未来はきわめて貧なるぞ、
利口で富貴がなるならば、鈍なる人はみな貧か、
利口で貧乏するを見よ、
この世は前世の種しだい、未来はこの世の種しだい、
富貴に大小ある事は、蒔く種大小あるゆえぞ、
この世はわずかの物なれば、よい種えらんで蒔きたまえ、
種を惜しみて植えざれば、穀物取りたる例(ためし)なし、
田畑に麦稗(むぎひえ)蒔かずして、麦ひえ取りたるためしなし、
むぎひえ一升蒔きおけば、五升や一斗はみのるぞや、
しかれば少しの施しも、果報は倍々あるものぞ、
いわんや施し多ければ、果報も多しとはかりしれ、
それゆえ釈迦も観音も、施しせよとすすめたり、
さすれば乞食(こつじき)非人まで、救うこころをおこすべし、
おのおの富貴で持つ宝、有れば有るほど足らぬもの、
おおくの宝をゆずるとも、持つ子が持たねば持たぬもの、
少しも田畑ゆずらねど、持つ子はあっぱれ持つものぞ、
我が子の繁昌(はんじょう)祈るなら、人を倒さず施行せよ、
人を倒して持つ宝、我が子にゆずりて怨(あだ)となる、
人の恨みのかかるもの、ゆずる我が子は沈みきる、
升や秤(はかり)や算盤や、筆の非道をしたまうな、
常々商いする人も、あまり非道な利をとるな、
死んで三途に入ることぞ、
その身は三途に落ち入って、屋敷は草木が生いしげる、
非道は子孫の害となる、親の悪事が身にむくう、
世間に数々ある物ぞ、
一門繁昌することは、親が悪事をせぬゆえぞ、
もしまた親にはなれなば、ますます重恩思いしれ、
子を慈しむ親ごころ、荒い風をも厭いしぞ、
それ程親に思われて、親を思わぬおろかさよ、
おやに不孝な人々は、鳶(とび)や烏に劣りたり、
むすめ息子をしつけるに、惜しむ宝はなきものぞ、
親の後生の為ならば、その金出して施行せよ、
飢え死ぬ人を助けなば、これに勝(すぐ)れる善事なし、
たとい満貫長者でも、死んで身につく物はなし、
妻も子供も銭金(ぜにかね)も、捨てて冥土の旅立ちぞ、
冥土の旅立ちする時は、耳も聞こえず目も見えず、
行方しらずに門(かど)を出で、暗き闇路に入る事ぞ、
そのとき後悔限りなし、とかく命のあるかぎり、
菩提の種を植えたまえ、
命は脆(もろ)きものなれば、露の命と名付けたり、
今宵頭痛がし始めて、ついに死病となるもあり、
強い自慢をする人も、暮れに頓死をするもあり、
今日は他人を葬礼し、明日はわが身の葬礼ぞ、
しかれば頼みなき娑婆に、金銀たくわえ何にする、
富貴さいわいある人は、貧者に施しせらるべし、
貧者に施しせぬ人は、富貴でくらすかいもなし、
犬でも口はすぐるぞや(食うぐらいできる)、飢え人貧者を助くべし、
慈悲善根はそのままに、家繁栄のご祈祷ぞ、
慈悲善根する人は、神や仏に守られて、
天魔外道は寄りつかず、然れば祈祷になるまいか、
よくよく了簡せらるべし、
恵み施しならぬとは、あんまりどうよく(胴欲、どん欲)目にあまる、
飢え死ぬ貧者を見ぬふりに、暮らす心は鬼神(おにがみ)か、
慈悲善根のなき人は、子孫はんじょう長からじ、
宝は余りはなき物ぞ、施行で借銭(しゃくせん)し始めよ、
それこそまことの信心よ、
上(かみ)なる人をはじめとし、頭(かしら)立ちたる人々は、
我も我もと共々に、厚く施行に身を入れよ、
貧者の命救うなら、広大無辺の善事なり、
平生貧者に敬われ、身につく果報あるまいか、
人の食いもの捨つるのを、好んで拾うて食うものは、
前世に蒔く種たらぬゆえ、是非なく袖乞いする事ぞ、
かかる有りさま見ながらも、おのおの仁心起こらぬか、
とにも角にも人として、信心なければ人でなし、
この節信心起こらねば、まったく牛馬にことならず。
闡提尊師施行歌終
参考文献「白隠禅師法語全集第十三冊」芳澤勝弘編注 禅文化研究所 平成14年
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