トルコの話

平成十九年の九月、トルコへ行ってきた。この国は正式国名をトルコ共和国といい、国土の面積は日本の二倍強、人口は七千万人ほど、国民の七割以上は農業従事者、という国である。ただし国土の広さは日本の二倍強であるが、車窓からの眺めでは十倍も広いように感じた。見渡すかぎりどこまでも畑や牧草地が続く、といった景色が多かったからである。

トルコはアジアとヨーロッパの境界に位置しており、国土の九七パーセントはアジア、三パーセントはヨーロッパに属し、最大都市イスタンブールもボスポラス海峡をはさんでその両方にまたがっている。つまりボスポラス海峡がアジアとヨーロッパの境界であり、エーゲ海と黒海とを結ぶこの狭い海峡は交通と戦略上の要衝でもある。なお黒海は地図で見ると湖のように見えるが、水は塩分うすめの海水である。

トルコは車が交通の主役という国なので、道路はよく整備されている。そしてこれは日本では考えられないことだが、道はできるだけ信号を設置しないように作られているため、一般道を走っていてもほとんど信号にぶつからず、そのため一般道と高速道路の見分けがつかないことがあった。一般道の法定速度は九〇キロ、高速道路は一二〇キロである。

トルコは川の少ない国であり、川らしきものがあっても水は流れておらず、水が流れる川は一本しか見なかった。地中海沿岸の国には水道橋の遺跡がたくさん残っている。それを見たとき、なぜ水のためにあんな大がかりなものを作ったのかと不思議に思ったが、遠くの山から引かなければ水が確保できなかったことがこの旅行で納得できた。

だから今でも水の確保は大問題に違いないとガイドに質問したら、チグリス川やユーフラテス川に巨大なダム湖がいくつも作られており、そのほかの川にもダムがあるし、地下水も豊富なので、今のトルコに水問題はないという返事であった。

     
日本との関係

トルコは親日的な国といわれており、旅行してきたばかりの私も確かにその通りだと思う。トルコ人が日本に親近感を持つようになったのは、日本人が忘れてしまった百年以上前の海難事故からという。明治二三年九月十六日の嵐の夜、トルコの軍艦エルトゥールル号が和歌山県南端にある紀伊大島(きいおおしま)で難破した。そこは船の墓場として恐れられている樫野崎(かしのざき)下の岩礁帯であり、死者は五八七人、生存者は六九人であった。

その軍艦には国交を開くために来日したオスマントルコ帝国の使節団が乗っていた。当時トルコと日本は、ともに不凍港の確保を目ざすロシアの南下に手を焼いており、ともに欧州列強との不平等条約という問題も抱えていた。そのためアジアの西と東の端の国が接近を図ったのであり、使節団は明治天皇に謁見するという東京での任務を果たした後、帰路に遭難したのであった。

エルトゥールル号はかなりの老朽艦であった。破産状態にあったオスマントルコに新鋭艦を派遣する余裕はなく、そのため艦は嵐に遭遇すると、マストが折れ機関が破裂して操船不能になり、樫野崎に向かって突進するように流され岩礁に激突したのであった。

このとき大島の住民は献身的な救助活動で生存者を助けただけでなく、遺体を収容して手あつく葬り、慰霊碑を建立して慰霊法要もおこなった。遭難者墓地では今も地元の小学生による清掃活動が続けられているという。日本政府もできる限りの援助をおこない、さらに生存者を送り届けるために金剛と比叡の二隻の軍艦をトルコへ派遣したのであった。

そうして帰国した生存者が日本でのでき事を大きく報じたため、この事件はトルコの教科書にも載り、今でもトルコ人の多くがこの事件のことを知っているという。そのため今回の旅行でも、現地ガイドは自己紹介の次にこの事件のことを話していた。

紀伊大島は串本節に出てくる「ここは串本、向かいは大島」の大島であるが、この民謡に歌われた巡航船は橋が架かったため今は運航していない。樫野崎はその橋を渡った島の反対側にあり、岬の高台には灯台、遭難者墓地、トルコ記念館、昭和十二年にアタチュルク大統領が建てた遭難之碑などが散在している。

この事件には九五年後に後日談がある。それは一九八〇年から一九八八年にかけてのイラン・イラク戦争のときである。長引く戦争のために戦火が拡大し、一九八五年三月からは互いに民間人の居住地区に対しても無差別爆撃をするようになり、そのためイランに滞在する外国人は出国を余儀なくされた。

ところがイラクのフセイン大統領は時間制限を設定し、その時間以降にイラン上空を飛ぶ飛行機は民間機であっても攻撃するという声明を出した。そのため日本からの救援機が間に合わず、多くの日本人がイランの首都テヘランに残されかけた。そのときトルコ政府が救援機を派遣して、日本人に優先的に座席を提供してくれたのであり、トルコ政府のこの決断にはエルトゥールル号の恩返しの意味があったといわれる。

     
トルコ人

トルコ人の祖先は現在のモンゴル国のあたりに住んでいた遊牧民族であり、彼らがモンゴル高原で最初に建国したのが突厥(とっけつ。西紀五五二〜七四四)である。だからトルコ人は本来、日本人と同じ蒙古系民族であったが、アフガニスタン、イラン、イラク、トルコ、ギリシア、ロシア、東欧、へと大移動する過程で混血して多様なトルコ人が誕生したため、今ではトルコ人の特徴を一言で表現することはできないという。中央アジアには今でも多くのトルコ人が住んでいる。そこを旅したとき、それらのトルコ人はトルコからやって来たと思ったのだが、実は反対だったのである。

つぎは現地ガイドから聞いた話。

トルコ人は大家族で暮らすことを好む。これは遊牧民族だったときの習慣から来ているといわれ、家族で助け合って暮らしているため、トルコには老人ホームもなければホームレスもいない。ただし墓は一人ずつの墓ばかりで合葬式の先祖代々の墓はない。その理由は、死ねば一人で神さまの前に立たなければならないから。葬法は土葬であり墓地の管理は役場がしている。

この国の農村では今でも牛、ヤギ、羊などがたくさん飼われている。この中で一番賢いのは、放っておいても自分で帰ってくる牛。その次に賢いのは、道草を食って遅くなるが自分で帰ってくるヤギ。ところが羊は頭が悪く自分では帰れない。そのため羊はヤギと一緒に放牧する。トルコでは子供が五歳ぐらいになると、自立心を養うために買い物に行かせる。子供が行くのをためらっていると、「あなたは羊じゃないからちゃんと帰れるでしょう。だから大丈夫。行きなさい」と言って励ます、という。

私はバスの後ろにいたので、なぜそんな話になったのか知らないが、トルコの電車やバスに痴漢はいるのかという質問が出た。するとガイドの女史は、トルコでそんなことをしたら大変、そういう人は回りの男が集まってきて袋だたきにしてしまう、だから恐くて痴漢なんかできない、夜道でも女性が悲鳴をあげればすぐに男の人が集まってくる、トルコでは女性は非常に大切にされている、と話していた。そして日本で女性専用車両が登場したことを取りあげ、トルコにはそんなものは必要ないと批判的であった。ただし彼女は女性専用車両は日本の発明だと思っていたようであるが、私は三〇年も前に外国で見たことがある。

これは空港でのできごとである。近くにいた若い二人の男がなぜか急にけんかを始めた。するとたちまち五〜六人の男が体を張って止めに入り、収めてしまった。見ず知らずの人たちが、何のためらいもなく割って入って仲裁するのを見て、つくづくトルコ人畏るべしと思った。

けんかが始まれば止めに入る、女性が困っていれば助けに行く、というのは男の義務とされているらしく、この国は農業国であるが国民には遊牧民族の気質が多分に残っている。あるいはこうしたことには徴兵制のあることが影響しているのかもしれない。またトルコ人にはあっさりとした人が多く、バザールなどで付きまとわれることはほとんどなかった。

     
トルコのイスラム教

トルコがある場所は東ローマ帝国があった場所である。つまり昔ここはキリスト教の国であったが、オスマントルコに占領されたことでイスラム教の国になったのである。ところがガイドは、トルコはイスラム教国ではないとくり返し言っていた。イスラム教は国教になっていないし、政教分離も徹底しているし、他の宗教も認めているから、イスラム教国ではないというのである。そのせいかもしれないが宿のへやの天井には、礼拝の方向を示す矢印が付いていなかった。

とはいえ国民の大多数はイスラム教徒なので、空港など人の集まる所には必ず礼拝用の部屋が用意されていたし、モスクもいたる所にあった。ミナレットという尖塔が立っているためモスクは一目で判別できる。だからどんな小さな集落にもモスクがあることはすぐに分かった。集落が大きくなるとモスクの数が増え、町の中だと五つぐらいはすぐに見つかる。貧しい村ではモスクも貧しく、豊かな町では立派である。トルコにモスクがいくつあるのかきいたら、そんな質問をした人はいないから知らないとガイド氏。メッカに向かって礼拝するなら、モスクはすべてメッカに向かって建っているのかときいたら、必ずしもそうではないという。

なお、トルコに仏教が伝わったことがあるか、仏教の遺跡はあるか、ときいたら、そうした歴史も遺跡もないという。仏教遺跡はアフガニスタンやウズベキスタンにはたくさん残っている。仏教は西に向かってどこまで伝わったのだろうか。

この旅行の現地ガイドはファティマという三九歳の女性、ファティマはマホメットの娘の名前だという。彼女は、私はまじめなイスラム教徒ですと言いながら、礼拝は一切しないとも言っていた。この言葉がトルコのイスラム教の実態を表しているように思った。

     
眼の権利

この旅行の目玉は、熱気球の上からキノコのような奇岩が林立するトルコ屈指の観光地、カッパドキアを眺めることであった。気球に乗るのは初めての経験であり、数十もの巨大気球が空中に浮かぶ眺めは見ものであった。気球は高度三百メートルくらいまで上昇したと思うが、操縦士の腕の見せどころは木や岩の上をすれすれに飛ぶことらしく、そのためときにはぶつかることもあるという。

気球は収穫が終わった小麦畑に着陸させる予定だったようだが、私たちが乗った気球は風に流されて町に近いブドウ畑に着陸した。そこは斜面になったブドウ畑なので、収容に来た人たちが気球をトラックに載せるのに苦労していた。「何でこんな所に下ろすんや」、「風任せやから仕方ないやろ」、などと言い合いをしていたようだった。

先に客を下ろせばいいのにと思いながら、私はゴンドラの中からその作業を見ていたが、考えてみれば乗客が下りると軽くなった気球は舞い上がってしまう。そのためトラックに固定するまで下ろさなかったらしい。二〇人乗りの重いゴンドラをトラックに積むには、気球で持ち上げておかなければ積めない。だから完全に着陸させてしまうこともできないのである。

着陸したブドウ畑には、小さな実をつけた小さなブドウの木が植わっていた。それを見たとき、ガイドの「眼の権利」という話を思い出した。この国にはブドウやリンゴやアンズなどの果樹園が多い。空腹のときそうした果実がおいしそうに実った果樹園の横を通ると、どうしてもそれらが眼につく。そうしたとき、その場ですこし食べるのは眼の権利として許されるというのである。ただし持っていくのはだめである。そこでさっそく眼の権利を行使してそのブドウを食べてみたら、驚くほど甘くおいしかった。仏教では花の香りをかってにかぐのも盗みになるといわれるが、トルコ流の眼の権利の方が現実的だと思った。

     
アタチュルク大統領

八月三〇日は、独立戦争の最後の戦いであるギリシャとの戦いに勝利した日なので、勝利の日という国民の休日になっている。私がトルコに入国したのはその前日であったが、そのときすでに町には国旗があふれていた。十畳ほどもある巨大な国旗も、建物の窓からたくさん下がっていた。トルコ人の国旗好きは有名であり、国旗と国歌とアタチュルクの三つが愛国心の象徴になっているという。

アタチュルクはトルコ共和国の初代大統領の名前であるが、この名前には少し説明がいる。彼が親からもらった名前はムスタファであり、当時のトルコ人には姓がなかった。そしてそれに、学業が優秀だったことで完全を意味するケマルが加わり、さらに准将に昇進したとき将官の称号パシャが加わり、ムスタファ・ケマル・パシャと呼ばれるようになった。

ところが彼が大統領だったとき、国民全員が姓をもつことを定めた法律、創姓法が施行され、そのとき国民議会が大統領に贈った姓が、「トルコの父」を意味するアタチュルクであった。そのため今はケマル・アタチュルクと呼ばれている。没後七〇年たっても彼の人気は一向に衰えず、行く先々の町の広場にはたいてい彼の像が立っていたし、空港の本屋には彼に関する本が十冊ほども並んでいた。アタチュルク大統領には「灰色の狼」というあだ名がある。これは彼の風貌にぴったりのあだ名であり、そのするどい眼差しには強い意思が表れている。

彼はオスマントルコ帝国の軍人であった。ところがオスマントルコは、第一次大戦に敗れたことでヨーロッパ列強の侵略を受け、国が消滅するという危機にまでおちいった。そのとき後のアタチュルク大統領は、トルコの独立を守るために国民軍を組織して戦った。そして国内ではオスマントルコ帝国を倒し、対外的にはイギリス、フランス、イタリア、ギリシアの連合軍を追い出し、ついに一九二三年十月二九日、トルコ共和国を建国し初代大統領になった。これがトルコ革命である。

彼は優れた軍人であり、優れた政治家であり、成功した独裁者であった。彼は明治天皇を尊敬していたといわれ、その改革には明治維新が影響していたといわれる。彼が大統領の職にあったのはわずか五年間であるが、その短い期間にトルコの進路を決定する多くの改革をおこない、トルコは今も彼が定めた路線の上を走っている。

彼が断行した改革で最大のものは政教分離と宗教改革である。近代化には脱イスラムが不可欠であるとして、「イスラム教を国教とする」という条文を憲法から削除するとともに、非宗教的な法律を制定して脱イスラムを目ざしたのであった。

そして宗教的な特権階級の廃止、宗教的な権威に結びつくターバンやトルコ帽の禁止、女性のベールの廃止、イスラム教に結びつくアラビア文字の廃止と使いやすいローマ字の採用、不便なイスラム暦の廃止と西暦の採用、一夫多妻の禁止、農地改革、創姓法の施行、などのことを実施した。そのためトルコはルネサンスと宗教改革と産業革命を同時に行った国といわれる。

アタチュルク大統領は、一九三八年十一月十日に五七歳で急逝した。過度の飲酒と大統領の激務が命を縮めたといわれ、酒はイスラム教で禁じられているが、愛飲家の彼が酒の販売を許可したため今でもこの国では自由に飲める。

現地ガイドに、トルコにとって一番大きな問題は何かときいたら、すぐに周囲の国々だという答えが返ってきた。この国は、イラン、イラク、シリア、ギリシア、ブルガリア、アルメニア、グルジアと国境を接しており、黒海の対岸にはロシアとウクライナがあり、キプロス問題も抱えている。そのため徴兵制に支えられた強力な軍隊を持っている。

参考文献
「東の太陽西の新月」山田邦紀 坂本俊夫 2007年 現代書館
「中東イスラーム民族史」宮田律 中公新書 2006年
「トルコ民族の世界史」坂本勉 慶応大学出版会 2006年
「アタチュルクあるいは灰色の狼」三浦伸昭 文芸社 2006年
「地球の歩き方。イスタンブールとトルコの大地」ダイヤモンド社 2007・2008年版

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