謝罪の話
謝罪は世界を変える力を持っている。謝罪は、魔法のように紛争を解決し、和解と許しを生み出し、人間関係を修復し、人を更正させ、調和を取りもどす。謝罪は怨憎会苦(おんぞうえく)の特効薬でもある。
誰かに迷惑をかけたとき、謝罪することは相手に敬意を示すもっとも有効な方法であり、謝罪が正しくおこなわれるなら相手は傷ついた自尊心をいやすことができる。逆に謝罪しないことは、相手を軽視していることのあからさまな意思表示になる。だから、うそや言い訳や黙りこみでごまかすよりも、すなおに謝るのが一番である。
私たちは謝罪をすることで謙虚になることを学ぶことができ、人から許しという贈り物をもらうことで、他の人に同じ贈り物ができるようになる。勇気ある一つの謝罪から、謝罪の輪が世界に広がっていく。自分の行動に責任をもち、迷惑をかけた人に謝罪と償いができるようになったとき、私たちの生き方は人を感動させ世の手本になる。
謝罪することは自分自身に対しても大きないやしになる。罪悪感や羞恥心がアルコール依存症や薬物依存症の原因になっていることがある。きちんと謝罪をし、責任をとることで、そうした罪悪感や羞恥心から自分を救うことができる。最も大切な人間関係は自分自身との関係であるから、まず自分が自分を許さなければならない。そうすれば心の平和を得ることができる。
そのため謝罪はほとんどの宗教で信仰の柱になってきた。カトリック教会で行われる懺悔は神への謝罪であり、懺悔には謝罪の重要な要素がすべて含まれている。後悔を言葉にすること、自分の行為に対する責任を認めること、罪を繰り返さないことを誓うこと、許しを乞うこと、などがそれである。
ただし謝罪は自発的なものでなければならない。だから相手をなだめるために自分は悪くないと思いながら謝罪するのはよくない。また責任をとる意志が固まっていなかったり、自分の過ちを認めることができないなら、まだ時期尚早なのかもしれず、そうした場合には謝罪の効果は期待できない。
ときには謝罪することが有害な場合もある。それは、謝罪することで断ち切ったはずの悪縁がつながったり、逆手に取られて自分が危険な状態になったり、相手が責任転嫁の口実にする場合などである。女性は謝りすぎる傾向があるが、過度に謝罪すると弱い人間と見られてつけ込まれたり、人から尊敬されないことにもなる。
謝罪する
謝罪に関しては、自分が謝罪する、人から謝罪を受ける、人に謝罪を求める、の三つの問題がある。
謝罪とは、過ちを犯したことに気づいたらすぐに謝る、ただそれだけのことである。しかしまちがった自尊心を抱いている人や、自信のない人は、謝罪できないものである。多くの人は謝罪を避けて通ろうとするが、過ちを認める勇気を持っていないといろんな弊害が生じてくる。たとえば小さな問題が手に負えない問題に発展したり、謝罪すべきときに謝罪しないと後悔地獄に落ちたりする。また和解のためのどんな試みをしようと、謝罪をしていなければすべては無駄になる。
謝罪するときには、正直に自分の過ちを認めた上で、自分が過ちをおかしたこと、それを申し訳なく思っていること、これから態度を改めること、の三つを伝えればよい。ただし信頼を取りもどすには、事務的な謝罪と取られないように本気で謝罪しなければならない。また許す許さないといった相手の反応にとらわれてはならない。結果のために謝罪するのではなく、そうするのが正しいことだから謝罪するのである。
仕事の場においても、謝罪により信用と敬意が生まれてくるが、謝罪がなされなければ生まれてくるのは怒りと糾弾である。適切な対応がないのは非常に腹立たしいことであり、迷惑をかけられた人は話をきちんと聞いて欲しいと願っている。だから迷惑をかけたときには、まず謝罪し、それから相手の話をきちんと聞き、そして損害を補償しなければならない。
基本的に謝罪は早いほうがよく、先延ばしにするとささいなことでも悪意でしたことと受け取られかねない。たとえば人の足を踏むという過ちも、すぐに謝罪しなければ何か意味のある行為と思われてしまうのである。ただし早すぎる謝罪というものもある。反省も感情も伴なわない口先だけの謝罪がそれである。
謝罪で一番むずかしいのは、すなおに過ちを認めて責任をとる決意をする段階であり、これをしっかりやらないと効果のある謝罪はできない。問題の核心には真実がある。勇気をもって真実に向き合うなら、無限の力が味方になり道は必ず開ける。反対に真実から目をそらせば無限の力を敵に回すことになり、すべての問題は手に負えなくなる。また謝罪するには、何で謝罪しているかを相手に伝える必要があるから、真実から眼をそむけていては謝罪を受け容れてもらえない。
謝罪の方法には、会って直接謝罪する、手紙で謝罪する、電話で謝罪する、メールで謝罪する、などがある。
直接謝罪するのは得られるものは大きいが、勇気を必要とするし、相手の負担も大きい。だから次のような前置きをする方が良い。「○○のことで謝りたいのです。許してほしいといっている訳ではありません。ただ私は自分の気持ちを伝えたいのです。後でゆっくり私が言ったことを考えていただければと思います」。ただし相手が危害をおよぼす可能性がある場合には、この方法はやめるべきである。
手紙で謝罪するのは話しの苦手な人には賢い選択である。思っていることを時間をかけて書くことができるし、相手の負担も小さい。メールの場合、すぐに返事を出さなければと思う人が多いので、返信は時間がかかってもかまわないという一文を入れるとよい。電話による謝罪は、表情で誠意を表すことができず、手紙のように何度も書き直すこともできないので、最も効果の少ない方法である。
謝罪するのに手遅れはないが、二度目の好機も多くはない。だから充分な準備を調え、予行演習をおこない、全身全霊をかたむけて謝罪しなければならない。直接あるいは電話で謝罪する場合には声を出して練習し、手紙やメールの場合は充分に推敲する。
謝罪するときにはあらゆる結果に対して心の準備をしておかねばならない。相手が喜んで受け入れることもあるし、拒絶することもあるし、怒り出すこともある。しかし結果はどうあれ謝罪をすれば自分自身のいやしになる。
子どもに謝ることを教えるには親が手本を見せればよい。自分の非を認めることに勇気が要ることは子どもでも知っている。だから過ちを子どもに詫びることは勇気ある行動として子どもの目にうつる。ただし子どものきげんを取るため、あるいは過ちを改められない自分を弁解するために、謝罪を利用してはいけない。謝罪は同じ過ちを繰り返さない努力をしてこそ力を発揮する。
子どもにもきちんと謝罪を求めるべきである。そうすれば、して良いことと悪いことがあること、自分の行為が人に影響を及ぼすこと、そして何らかの結果を伴うこと、を教えることができる。謝ることの大切さを学んだ子どもは、他者を尊重する忍耐強い人間になる。
謝罪は真実を認めることから始まり、誠実であることで終わる。誠実であるとは、自分の行動とそれが与えた影響の責任をとることであり、具体的な償いを実行することである。
中年期を過ぎると多くの人が後ろをふり返るようになる。昔、傷つけてしまった人に謝罪するには、謝罪の言葉を紙に書くとか、相手がそこに居るように話しかけて謝罪するとか、補償に関しては慈善事業に寄付するとか、奉仕活動をおこなうなどの方法がある。相手が亡くなっている場合も同様である。
謝罪を受ける
謝罪を受けるのも難しいことであるが、謝罪を受けることと、謝罪を受け容れることと、相手を許すことは別の問題である。だから相手が謝ったのだから受け容れるのが当然、と考える必要はなく、謝罪を受け容れたからといって、相手を許せるとも限らない。
急に謝罪されると、あわててしまうことがある。しかし、謝罪を受け容れるのに時間がかかることもあれば、理由を問い質さなければならないこともある。怒りや痛みがまだ残っているならそれを伝える必要がある。誠意のない謝罪なら過ちを繰り返さない方法を話し合う必要もある。だから謝罪を受けるときにはゆっくりと深呼吸しながら、相手の言葉をよくかみしめなければならない。
自分を傷つけた人を許すことは、相手に最高の贈り物をすることである。相手は自分が許されざる者であるという思いから解放されて、新たな人生に向かって出発することができる。理由はどうあれ謝ってきたのであれば、少なくともあなたに対して謙虚になったという事実は認めるべきである。
許すことを妨げる最大の障害物は他者を批判する心である。しかし、もしも自分が傷つけた人がみな復讐してきたら、私たちはどうなるだろうか。批判は共感の欠如から生まれ、相手との間に距離を作る。自分の心の陰の部分をよく知っている人は、人の立場に共感することができる。そして共感は互いの心を結びつける。「人を批判することをやめよ」は大切な教えの一つであり、批判は力と時間の浪費でもある。
あなたを傷つけた人物は、誰もがそうであるように、誤りの多い、了見の狭い、心の弱い、自分勝手な、満たされない人間である。許しとはみなが似たもの同士だと認める行為であり、謝罪を受け容れるたびに、そして自分の過ちを許してもらうたびに、私たちは他者に共感できる寛大な人間になっていく。
過去と決別して前進したいなら許すことが必要である。人を許すことができれば開放感といやしが得られる。復讐を考えたり誰かを避けながら生活するのは健康的な生活ではない。塩水が喉の渇きをいやさないように、復讐は憎しみの感情をいやさない。復讐は甘美なものではなく、それによって心の傷がいやされることもない。
ただし許しは強要されてはならず、許さないという選択肢も当然ありうる。自発的な謝罪がなければ、許さないこと、許しを保留することは、健全な選択肢になるうるのであり、また許すにしても許すべきときがある。
自分の気持ちを整理せずに人を許すことはできず、怒りを感じている限り許すこともできない。私たちが怒りにしがみつくのは、怒っていれば心の奥にひそむ痛みを感じなくてすむからであるが、怒りはやがて自分を滅ぼすことになる。しかし怒りは否定的な感情とばかりはいえない。怒りは力に満ちた感情であるから、怒りによって、自分を変えたり、鍛えたり、苦痛から守ったり、というように前向きな形で用いることもできる。
許すことが有害な場合もある。残虐な行為を許すことはそれを是認することにつながる。何度も謝罪しながら同じ過ちを繰りかえす人間を、許すことはできないかもしれない。許すことで自分に害がおよぶなら許すべきときではない。
謝罪を受け容れないのは、贈り物を拒否するのと同じであり、すでに私たちの関係は変わった、あるいは終わったことを意味する。
謝罪を求める
誰かに傷つけられ、相手が謝罪しないなら、私たちは怒りを覚える。誰もがそうした未解決の問題を抱えている。傷つけられたり、感謝されなかったり、無視されたりすることで、心の中は怒りで一杯になっていく。
謝罪を求めることは、怒りの処理と過去をいやすための画期的な方法であり、謝罪を求めないことは謝罪しないのと同じくらい人間関係に支障をきたす。過ちを犯した人を悪人あつかいして遠ざけるよりも、謝罪を求める方がよい。きちんと謝罪を求めるようにすれば、怒りやもめ事がへり気持ちも楽になる。だから離婚や家庭内暴力や犯罪も減っていくはずである。
誰かが私たちを見下したり、思いやりのない態度であつかったとき、それに対して抗議をしなければ、自分をどう扱っても構わないと許可を与えたも同然である。丁寧にしかもはっきりとした態度で相手に謝罪を求めることは、自分と接するときには敬意と気配りを忘れないでほしいと訴えることである。こうした行動は、くり返すことで身についていく。
そして、それは相手にも大きな恩恵をもたらす。相手はあなたを傷つけたことに気付いていないかもしれない。自分の行為が人に与える影響は分かりにくいものであるし、自分の行動が人を傷つけていることが分からない人もいるのである。
謝罪してもらうには、自分がどのような被害をこうむったか、どのような不愉快な思いをしたかを具体的に説明し、謝罪のほかに必要なものがあればそれも伝えればよい。たとえ相手が謝罪をしなくても言いたいことは届くから、努力が無駄になることはない。ただし謝罪を求めるときには許す準備が調っていなければならない。
反対に誰かが自分の問題点を指摘してくれたなら、それは重大な贈り物である。気づかずに繰り返している良くない行動があるのだから、過去に似たようなもめ事を起こしたことはないか、同じことを他の人に言われたことはないか、考えてみるべきである。
謝罪の実例その一
つい最近、ある航空会社が切符の予約をしそこなったんです。僕はひどく腹が立って、売り場の女性に文句を言いました。すると彼女は会社のまちがいを認め、迷惑をかけたことをあやまり、そしてこう言ったんです。
「こんなことは、私どもにはめったにないことです。コンピュータのプログラムを修正して、二度と起こらないようにいたしますが、あなたの信頼を取りもどすために、今すぐできることを何かさせてもらいたいと思います」
僕は感心して彼女に言いました。「もう大丈夫ですよ。あなたは僕の話をきちんと聞き、これが会社の手違いであったことを認め、いますぐ埋め合わせをしたいがどうすればいいかと尋ねてくれましたから」
謝罪の実例その二
南北戦争のさなかエイブラハム・リンカーンのもとに、スコット大佐という人物が訪ねてきた。彼は北部バージニアの首都を南軍の攻撃から守っている部隊の司令官のひとりだった。
彼の妻は病気の夫を看護するためワシントンへやって来て、帰る途中、蒸気船の衝突事故で溺死した。スコットは連隊司令官に、妻を埋葬し子供たちを慰めるための休暇を願い出たが、要請は却下された。戦闘はいつ始まってもおかしくない。だからひとりでも士官が欠けては困るという理由だった。
しかしスコットはみずからの権利として、指揮系統の上に向かって要請をくりかえし、ついに陸軍長官までたどり着き、そこで拒絶されたため自らの訴えを最高位の人物にまで持ってきた。スコットが大統領に面会したのは土曜日の深夜であり、大統領執務室に通された最後のひとりであった。リンカーンは彼の話を聞いていたが、スコットが返答をうながすと急に激昂した。
「私には休みはないのか。なぜそんな用件で私をここまで追いかけてくるのか。戦争局へ行けばいいではないか。書類や輸送全般を扱っているのはあそこだ」
陸軍長官から拒絶されたことをスコットが告げると、大統領は答えた。「ではおそらくきみは川を下るべきではないのだろう。陸軍長官は現時点での必要なことをすべて把握している。どんな規則が必要かも知っている。そして規則は守られるべきだ。私が彼の決定をくつがえすのは誤りだろう。それは重要な作戦行動に壊滅的な影響をおよぼしかねない。
それからもうひとつ、きみが覚えておくべき事がある。私にはほかにも果たさねばならない職務がある。だからこの種の問題を考えている余裕はない。なぜこんな所にまでやって来て、わたしの慈悲心に訴えようとするのだ。われわれが戦争のさなかにいることが分からないのか。
われわれすべての上に苦痛や死がのしかかっている。平和なときにはふつうに行われてい事が、今は戦争によって踏みにじられ禁じられている。そうしたことの余地は残されていないのだ。今果たさなければならない義務はただひとつ、戦うことだ。
この国のすべての家族が、悲しみに打ちひしがれている。しかし全員が私のところへ助けを求めにくる訳にはいかない。私は背負える限りの重荷を背負っている。戦争局へ行きたまえ。きみの問題はあそこに属するものだ。もしそれでだめだったら、この戦争が終わるまで皆と同様にきみの重荷を背負うことだ。一切はこの戦争を終結させるという至高の義務に準じなければならない」
大佐は陰鬱な気分で兵舎にもどった。翌朝早くスコット大佐の耳に、部屋のドアをたたく音が聞こえた。ドアを開けると大統領が立っていた。リンカーンはスコットの手をとって堅く握り、勢い込んで話しはじめた。
「ああ大佐、夕べはきみにひどい仕打ちをしてしまった。どんな言い訳のしようもない。あのとき私はどうしようもなく疲れていたのだが、だからといって祖国のために命を捧げている人物をぶしつけに扱う権利はなかった。まして悲嘆のきわみにある人物ならなおさらだ。私は一晩中後悔し、今こうしてきみの許しを請いにやってきた」
リンカーンは、妻の葬儀に帰れるように手配したことを大佐に伝え、そして自分の馬車で大佐を蒸気船が待つポトマック川の埠頭まで送り届けさせた。
参考文献
「人はなぜ謝れないのか」ビヴァリー・エンゲル 日本教文社 平成十八年
「一分間謝罪法」ケン・ブランチャード。マーグレット・マクブライド 扶桑社 2003年
「謝罪の技術」渋谷昌三 ダイヤモンド社 2003年
「そんな謝罪では会社が危ない」田中辰巳 2006年
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