和解の話

社会生活をしているかぎり、嫌いな人と一緒に仕事をする、あるいは顔も見たくない人間と一緒に生活をする、といった苦しみを避けて通ることはできない。仏教ではそうした対人関係における苦しみを、憎む人と会う苦しみということで怨憎会苦(おんぞうえく)と呼び、人生の八大苦のひとつに数えている。

その怨憎会苦の治療薬のひとつに和解がある。もめ事を適切に処理して仲直りすること、過去のもめ事による恨みつらみを解きほぐすこと、それが和解である。ここでは臨床心理士の井上孝代氏の著書「あの人と和解する。仲直りの心理学」からの引用でもって、和解の方法をご紹介したい。

ただし何が何でも和解すればいいというものではない、と著者は警告する。和解どころか二度と会ってはならない相手もいるし、中途半端な和解で葛藤がさらに大きくなることもあるから、事前にそうしたことを見極める必要があるというのである。

対立する相手と和解するには大きな精神力が必要であり、そしてときには自分自身との関係を見直すことが必要になることもある。もめ事の中には他者との争いという形はとっていても、自分の心が原因になっているもの、つまり心の中の無意識の葛藤が他者との関係の中で表面化してもめ事になっているものが少なからず存在するのであり、その場合和解しなければならない相手は自分自身である。また突き詰めていえば和解はすべて最終的には自分との和解であるから、和解の技術はいやしの技術でもある。

和解の方法はもめ事の数だけあるといわれ、その中で最も一般的なのは双方の妥協点をさがす方法であるが、この本が取り上げているのは、対立を超越したところに解決策を創造する超越法という方法である。

超越法による和解の第一歩は、仲良くするための共通点をさがすのではなく、互いの独自性を認めあうことにある。どこですれ違いがおきたかを知るために、対立や違いが表面化することを恐れずに話し合い、考え方の違いや感情の対立点を見きわめる。そしてその上で互いに相手を尊重し受け容れていくという方法である。自分の生き方を肯定できる人なら、他人の生き方も肯定できるはずであり、本当に和解したいと思うなら安易に相手を分かろうとしない方がいいという。

     
チャンネル争い

ある夫婦のチャンネル争いを例に、超越法の具体的な方法を説明する。帰宅した夫が、にぎやかなお笑い番組を見たいと言い出した。ところが妻は毎週楽しみにしている連続ドラマを見ようと夕食の片付けを早めにすませた所だったので、意見は激突し夫婦げんかに発展した。夫は「そんな下らないドラマのどこが面白いのだ」とケチを付け、「週に一度の楽しみをどうして邪魔するのよ」と妻はムキになる。こうした場合つぎのような解決法が考えられる。

一、夫が好きな番組を見る。

二、妻が好きな番組を見る。

三、けんか両成敗で二人とも見ない。

四、両者の妥協点を探す。たとえば三〇分ずつ見るとか、テレビを見た方は別のことで譲歩する、などの妥協点を探す方法であり、これが最も一般的な解決法といえる。

普通に考えられるのは以上の四つだが、どれも不満の残る方法である。両者がともに満足できる方法はないのだろうか。円満な解決策を探るには、対立の原因を見きわめるため、相手の言い分をよく聞かなければならない。好きな番組を見たいというのが本当の対立点なのだろうか。

夫の本心は「会社で不愉快なできごとがあり、それを早く忘れるために、にぎやかなお笑い番組を見たい」であった。妻の本心は「家事や育児に追われるばかりで、旅行の一つも連れて行ってくれない。ストレス解消は好きなドラマを見ることぐらい」であった。つまり本当の目的は二人ともストレス解消なのである。そこに気が付けば二人が同時に満足できる解決策が見えてくる。それを創造するのが超越法である。

妻が夫に、「会社で何かあったの。ちょっと飲みながら話しましょうよ」と話を聞いてあげれば、夫が番組にこだわる必要はなくなる。会社での不愉快なでき事を聞いた妻が、「これからカラオケにでも行こうか」と提案して二人で盛り上がれば、両者のストレス解消にもなる。

この夫婦のように、表面に表れた対立と問題の核心部分がずれていることはよくある。だから相手の言葉や態度にすぐ反発するのではなく、それにこだわる相手の心を推しはかってみるべきであり、その余裕が円滑な人間関係を作ってくれる。勝ち負け意識をぬぐい去り、互いの本心に耳をかたむけ合い、互いの多様性を認め合う。そうすれば気持ちが通じ合えるし、心の奥に隠れていた自分の願いや感情に気がつくこともある。

和解はどちらかに不満が残れば真の和解とはならない。だから相手を攻撃して得られるものではなく、自分が一方的に譲歩して得られるものでもない。そのため相手を攻撃しないようにしながら、自分の立場や意見を主張することが必要になってくる。それには「わたし」を主語にするとうまくいきやすい。

「あなたが言っていることはおかしい」と言うのではなく、「この件に関して私はあなたと違う意見をもっています」

「あなたはいつも約束を破ってばかりいる。前にも・・・」ではなく、「今日のすっぽかしには、私は本当に怒っています」

「あなたは自分の思い通りにならないと、すぐに怒り出す」ではなく、「そんなふうに怒られると、私はどうしていいか分かりません」

このように「私は」で表現すると穏やかな印象を与えることができる。それと「いつも、前にも、すぐに、だいたい、また」などの言葉は相手を傷つけるから使わない方がよい。

     
子どものいじめ

次に著者が扱った事例をふたつ紹介する。

日本人と結婚したフィリピン女性から、「子どもがいじめられている」という相談を受けた。保育園でほかの園児から「あいの子」と呼ばれて意地悪されるので、子どもが行くのを嫌がっているという。

あいの子という言葉を使っていることから、原因は他の園児の親にあると推測した著者は、その女性が得意とする英語をボランティアで園児に教えてみてはどうかと提案した。女性はこの提案の実行をしばらくためらっていたが、それしか解決策が見つからなかったので、ついに園児や近所の子どもに奉仕活動で英語を教えることを決心した。

そしてこの計画は成功した。子どもには遊びながら英語を学ぶ友達がたくさんできたし、学びに来る子の親もおやつの差し入れなどをするようになり、親同士の付き合いも親密になった。英語ができる母は子どもの自慢の母となり、何よりも彼女自身、日本で暮らしていく上での生きがいを見出すことができたのであった。

     
ニンニクのにおい

集合住宅に住んでいる女性から、「隣の住人が不愉快で仕方がない」という相談を受けた。隣人とは話をしたことがなく理由も思い当たらない。それなのに隣人のことを考えるだけでも腹が立つという相談だった。原因が分からなければ解決法もない。そこでくわしく事情を聞いてみると、臭いに対して嫌悪感を持っていることが分かった。隣人は韓国人であり、その隣人が毎日作るニンニクを使った料理の臭いに不快感を抱いていたのである。

そこで著者は、いきなり臭いのことで苦情を言うのではなく、まず隣人と話をしてみることを勧めた。そこで彼女はゴミ出しで会ったときに話しかけ、世間話をしながら遠回しに食べ物の方へ話題を持っていった。すると韓国育ちの隣人は、韓国に住む母親から送ってもらったキムチ料理を毎日食べていることが分かった。ニンニクのきいた母の手料理を、一日に一度は食べないと食事をした気がしないという。こうして「ニンニク料理は韓国版おふくろの味」という事情が分かってくると、それだけで彼女の嫌悪感は半減した。

さらに彼女がニンニクの臭いが嫌いなことを告げると、隣人は臭いが隣の住居にまで流れていくことに驚き、謝罪したうえで作るときには換気扇を回さないとか、夜はできるだけ作らないなどの解決案を出してくれた。その後お付きあいをするようになり、相手の生い立ちや家族の話を聞いたり、キムチ料理のおすそ分けを食べたりしているうちに、ニンニクの臭いは気にならなくなったという。

     
寄り合い(よりあい)

次に紹介するのは昔から日本で行われてきた寄り合いという和解法である。この事例は民俗学者の宮本常一(つねいち)氏が、一九五〇年ごろ対馬(つしま)で取材したものであり、それは何かの取り決めのために行われたものであった。

「会場へ行ってみると、板の間に二〇人ほどがすわっており、外の木の下でも三人五人とかたまって話しあっていた。雑談をしているように見えたがそうではない。事情を聞いてみると、村で取り決めをおこなう場合には、みんなが納得いくまで何日でも話し合うという。

はじめに一同があつまって区長から話を聞き、それぞれの地域組でいろいろと話しあって区長のところへ結論を持っていく。もし折り合いがつかねばまた自分のグループへもどって話しあう。用事のある者は家へかえることもある。ただしまとめ役を務める区長と総代はその場にいなければならない。

とにかくこうして二日も協議が続けられているという。夕べも明け方近くまで話しあったそうで、眠くなったり言うことが無くなれば帰ってもかまわない。話といっても理屈を言うのではない。一つの事柄について自分の知っているかぎりの事をあげていくのである。

この寄り合い方式は近ごろ始まったものではなく、村の申し合わせ記録の古いものは二百年近く前のものもある。昔は腹がへっても食べに帰らず家族に弁当を持ってきてもらって話をつづけ、夜になっても話が切れなければその場に寝る者もあり、徹夜で話す者もあり、それが結論が出るまで続けられた。

といっても、どんな難しい話も三日でたいていかたがついたという。気の長い話だがとにかく無理はしなかった。みんなが納得のいくまで話しあった。だから結論が出ると、それはキチンと守らねばならなかった」

以上のことから分かるように、この寄り合いの肝心な点は、多数決で決めるとか、話しあって譲歩するとか、利害の調整をするなどのことではなく、時間をかけて互いの言い分に耳を傾けあう点にあった。そのようにして互いの気持ちを率直にやりとりするうちに、初めは白と黒に対立していた意見が、様々な意見が解け合って灰色に変わっていく。

また自分の話を充分に聞いてもらえたという満足感があれば、人の話に耳を傾ける余裕が生まれてくる。心ゆくまで共感的な話し合いができた後なら、自分の考えと違う結論に達しても不満は残らないのである。

     
ホーポノポノ

ホーポノポノはハワイなどの南洋諸島で行われている和解法であり、この言葉には「曲がったものをまっすぐに直す」という意味がある。この和解法でもって、たとえば小学生のA君がB君のお金を盗んだという問題を解決する場合には、まず話しあいの場を設定し、そこに二人に関係する人たちに集まってもらい、進行役として人望のある長老にも加わってもらう。

まず最初に行われるのは事実の解明であり、ここまではどの和解法も同じであるが、ここから先が違ってくる。次に行われるのは、A君がしたことに関して自分にどんな落ち度があったかを、集まった人が順に述べていくのである。

A君の母親「家のことにかまけていつも一人ぼっちにさせていた」。A君の父親「最近夫婦げんかが絶えず子どもに悪い影響をあたえていた」。A君の友達「実は学校でA君をいじめたことがある」。担任の教師「彼がいじめられていることに気が付かなかった」。

被害者のB君「お金をとられたことは腹が立つけど、A君が貧乏なことをからかった自分にも悪いところはあった」。被害者の両親「Bに何でも買い与えたのはよくなかった」。近所の人たち「もっと子どもたちの様子に気を配るべきだった」、などのように自分の非を認めて反省するのである。

長老は一人ずつ話をさせながら、話がバラバラにならないように気を配り、自分の落ち度を反省する発言が終わると次に、今後こうしたことが起きないようにするには自分は何をするべきかをみんなに尋ねる。

するとA君の友人からは「彼はサッカーが好きだから、サッカークラブに誘ってみる」。A君の両親からは「夫婦関係をよくする努力をして、子どもにストレスを与えないようにしたい」。教師「もっと子ども達と話しあっていきたい」、などの提案が出される。

A君はB君だけでなく集まってくれたみんなに謝罪し、罪の償いとして「週に一回、B君の家の草刈りをする」などと自分から申し出る。最後に事件の内容と、今後みんなが実行すると約束したことを別の紙に書き、約束したことを書いた紙を長老が読み上げ、事件の内容を書いた紙を燃やしてホーポノポノは終わる。

つまりホーポノポノは、関係者が集まって事実を見つめ、各自の落ち度を反省し、よりよい未来を作るための提言をし、最後に過去を水に流す、という和解の儀式である。周囲の人々が、一方的に責めるのではなくA君の気持ちを理解しようと努力することで、A君は心から謝罪できるようになる。自分の気持ちが分かってもらえたと感じたとき、人は心から謝罪できるのである。

次は、著者が青年の船に乗っていたとき起こった事件の話である。青年の船には世界十数ヵ国から、一ヵ国あたり十三人の青年が乗りこんで交流活動をしていた。ある日、船の壁に蹴られたような大きな穴があいているのが発見され、こうした事件が起こった場合には、ただちに下船させるのが規則だったので、さっそく犯人捜しが始まった。そしてその過程でこうした事件に対する対処法が、国によって違うことが明らかになってきた。

西欧系の人は「犯人を特定するべきだ」と主張し、アジアや南洋諸島の人は「個人の特定は避けて、集団で責任をとるべきだ」と主張し、互いに譲らなかった。繰りかえし話し合いがおこわれる中で、犯人は南洋諸島の国の一員であることが分かってきた。話し合いの席上、その国のリーダーは謝罪した上で「個人の公表はさけたい」と主張したが、西欧諸国の人々は納得しなかった。そのためその国の十三人は乗船者全員の前に並んで謝罪した上でこう述べた。

「仲間の一人が飲めないお酒の飲んで酔っぱらいやったことで、悪意はなかったことを分かってほしい。どうしてもみんなが犯人を特定することを要求するなら、私たち全員が責任をとって下船する。その結論は皆さんにお任せする」

そうするうちにその中の一人が泣き出し、つられて他の者も泣き出した。最初に泣いた人間が犯人であるのは明らかだった。それを見ていた各国の若者たちから、「分かった。個人の特定はもういい」という発言が続出し、すぐにリーダーが集まって会議を開き、個人の責任は追及しないことを決定した。

その決定を聞いた当事者の若者たちは、「自分たちの方法でけじめをつけさせてほしい」と願い出た。その方法はホーポノポノであった。船長と団長と各国の責任者が輪を作って坐り、まず初めにこの事件を検証し、それから自分たちが何をして何をしなかったかを反省した。

まず船長と団長は「管理不行き届きだったことを反省する」と至らなかった点を反省し、各国のリーダーたちは「パーティで浮かれてしまい、お酒に不慣れな国の学生にも飲ませてしまったことに責任がある」と自分たちにも責任があることを認め、当事者の国のリーダーは改めて謝罪した上で、「これからこういうことは絶対に起こさないように努力する。再びこのような事態が起きたら即刻全員が下船する」と誓約した。

そして二度とこういう事件を起こさないための対策について全員が意見を述べ、最後に椰子の実の器に入れた儀式用の飲み物を回して全員が飲み、その器を床でたたき割って儀式は終わった。

参考文献「あの人と和解する」 井上孝代 集英社 2005年

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