観音さまの話

唐の時代の中国でのお話しである。雲巌(うんがん)禅師という人が兄弟子の道悟(どうご)禅師に質問をした。「観音さまはたくさんの手と眼を持っておられるが、どのように使うのでしょうか」

ここでいう観音さまとは千手千眼(せんじゅせんげん)観世音菩薩のことであり、千もの手と眼をどう使うのかと問答を開始したのである。すると道悟禅師が言った。「夜寝ていて枕がどこかへ行ったとき、手で探し回るように使うのだ」

観音さまは慈悲を象徴する菩薩であり、慈悲の「慈」は大安楽を与えること、「悲」は一切の苦悩をとり除くことを意味している。そしてそうした観音さまの慈悲の活動は、夜寝ていて枕をなおすような無心の活動だというのである。

観音さまは千どころか、無量の手眼と無量の手段を用いて一切の衆生を救済してくれるが、そのとき自分と他人、助ける人と助けられる人、といった分けへだては一切持っていない。また助けてやるとか、誉められたいといった思いも持っていない。宝石のような美しい眼で無心に衆生を見守り、無心のうちに清らかな手で衆生を救ってくれる、それが観音さまなのである。

春になれば草木は芽吹き、花は咲き、小鳥はさえずる。春という固まりはなくても、いつの間にか春はやって来てすべてを春の色に染めていく。空を行く月は人が見ていても見ていなくても、とどまることも音を立てることもなく動いていく。これも観音さまの無心の働きであり、すべての人に具わっている仏心の作用である。

本来、事にあたって行き詰まるということはない。行き詰まるのは行き詰まるような考え方をしているからであり、人生を難しくしているのは自分自身である。無心であり無我であるなら、いつも自由自在の観音三昧なのである。

至道無難禅師曰く。

「慈悲して慈悲知らぬとき仏というなり」

「つねづねに心にかけてする慈悲は、慈悲の報いをうけて苦しむ」

参考文献「従容録」安谷白雲 1973年 春秋社

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