ミャンマーの話

平成十九年二月、ミャンマーへ行ってきた。ミャンマーは正式国名をミャンマー連邦といい(一九八九年にビルマからミャンマーに改名)、国土の広さは日本の約一・八倍、人口は約四千三百万人、政体は軍政、という国である。ただし軍政といっても旅行中に軍隊を見たことはなく、警察官が多いわけでもなく、治安に対する不安を感じたことは一度もなかった。どうやらもめているのは、立ち入りが規制されている周辺地域だけのようである。

この国は国土の中央を南北にたくさんの川が流れ、そこに広大な田畑が広がり、しかも場所によっては年に三回、米が収穫できるという恵まれた農業国である。だから豊かな国でなければならないはずであるが、実際は世界で最も貧しい国の一つになっている。

この国の最大の問題は政治的に不安定なことであり、その原因は一三五の民族からなる多民族国家ということにある。国民の八五パーセントが上座部仏教を信奉する仏教国であるから、仏教で一つにまとまった国のように見えるが、内実は民族紛争が絶えないのである。なおこの国で最多の民族は人口の七〇パーセントを占めるビルマ族である。

この国では絵葉書を売り歩くような仕事を働き盛りの若者がしていた。産業が育っておらず仕事がないのである。産業をおこしたくても国内には資本や技術がなく、外国から導入したくても軍事政権のため入ってこないのであり、政治が悪いと全てがだめになるという言葉の見本のような国だと思ったが、国民の多くは農民であり、主食の米も安いということで、食うに困るという人は少ないようである。

今回の旅行でいちばん印象に残っているのはミャンマー人の笑顔であった。親切な人ばかりであり、そういう人たちと一緒にお寺参りをするのは気持ちのいいものであった。この国の老人たちの楽しみは、毎日のお寺参りではないかと思った。

そういう国であるから、ミャンマー旅行でもめ事が起きたことは一度もない、と添乗員が言っていた。旅行者は常にスリ、置き引き、詐欺師に狙われており、とくに守りの甘い日本人は世界中でカモにされているが、ミャンマーではそうしたことはほとんど起きないというのである。

日本人が物売りや詐欺師に付きまとわれるのは断り方が下手だからである。ノーサンキューの一言ではっきり断ればいいのに、余計なことを言うから付きまとわれるのである。また日本女性がよく狙われるのは、悲鳴をあげられないのが原因であるから、金切り声をあげる練習をしてから出発すべきである。

今では東南アジアでも腰巻き姿を見ることはほとんどなくなったが、ミャンマーではまだ男女ともに腰巻きをしている人が多かった。暑いところでは腰巻きの方が楽なので、私も室内用に一枚購入したが、この国の腰巻きは筒状になっていて、男と女では巻き方が違い、男の巻き方は難しかった。

     
ミャンマーの歴史

今回は大東亜(太平洋)戦争の戦没者慰霊の旅だったので、墓地や慰霊碑の前で読経してきた。それらの場所はどこも管理がよく行き届いていて気持ちよく読経できた。

日本とミャンマーの関係を知るために、この国の近代史の中から日本と関係があることを拾って以下に書いてみる。ここでは当時の国名ビルマを使用する。

一八八六年、ビルマ最後の王朝であるコンバウン王朝が、三回のイギリスとの戦いに敗れて滅亡し、ビルマ全土がイギリスの植民地になった。

一九四二年、大東亜戦争の開始直後に日本軍はビルマへ進攻し、これを占領した。ビルマ派兵の最大の目的は、援蒋(えんしょう)ラインと呼ばれる中国への補給路を断つことにあった。そのとき日本は中国で、蒋介石(しょうかいせき)ひきいる国民政府軍と泥沼の日中戦争を戦っており、蒋介石は米英の援助でビルマやインドから陸路で軍需物資を補給していた。優勢な日本海軍に海上封鎖されたため陸路を使うしかなかったのであり、その補給路が援蒋ラインである。

日本軍はビルマ占領後、さらにインドからの補給路を断つことと、イギリス軍をインドから追い出すことを目的に、インド独立を目ざすチャンドラ・ボースとともに、イギリス軍の拠点になっていたインドのインパールを攻撃した。しかしインパール作戦は無謀な作戦であった。険しい山岳にはばまれて、前線へ重火器を送ることができず、また弾薬や食料の補給もままならなかったからである。

そのため投入兵力八万六千人のうち生還一万二千人という惨敗を喫し、これがビルマの日本軍全体の敗走につながった。日本はビルマに三三万の兵力を投入し、十九万人が戦死したとされるが、実際は戦死よりも、餓死、病死、溺死、餓死寸前の自決、で命を落とした兵士の方が多かったといわれ、日本軍が撤退した道は白骨街道と呼ばれた。

一方、太平洋戦争直前の一九四〇年から四一年にかけて、日本軍はビルマの青年三〇名を密出国させ、海南島で軍事訓練をほどこし、ビルマ独立軍を結成していた。アウン・サン・スー・チー女史の父親で、ビルマ独立の父と呼ばれるアウン・サン将軍もそのうちの一人であった。そして太平洋戦争が始まると、ビルマ独立軍は日本軍とともにビルマへ進出し、ビルマを独立させることに成功した。しかし日本によるビルマ独立は見せかけにすぎなかったので、やがてビルマ全土で抗日運動が起こった。

一九四五年、日本の敗戦でビルマは再びイギリスの支配下に入ったが、抗日運動で結集された力が今度はイギリスへと向けられ、一九四八年、ビルマはイギリスから完全独立を果たした。しかし独立後も政治は安定せず国家崩壊の危機がいつまでも続いた。長くなるのでその後の四〇年間を省略すると、

一九八八年、民主化運動の高まりによりビルマは混沌状態になり、事態の収拾を名目に軍が全権を掌握した。

一九九〇年、法と秩序の回復のための暫定政権、と自らを位置づけていた軍事政権が、総選挙を実施した。そしてアウン・サン・スー・チー女史ひきいる国民民主連盟が、抑圧された不利な立場にありながら議席の八割を獲得した。ところが軍事政権はこの結果を無視、政権を譲らないどころか、スー・チー女史をはじめとする国民民主連盟の幹部多数を逮捕拘禁した。そして・・・今日に至っている。

なおミャンマーで一番の有名人であるアウン・サン・スー・チー女史の名には、姓が含まれていないという。ミャンマー人の名前には姓がなく、そのかわり複数の名を持っているというのであり、そのため結婚しても名前は変わらないという。

     
パゴダ(仏塔)の国

ミャンマーはパゴダの国であるから、ミャンマーの旅はおのずとパゴダ巡礼の旅になってしまう。パゴダの語源については、パーリ語で釈尊の遺骨を納めた部屋を意味するダートゥ・ガッパがダコバになり、さらになまってパゴダになった、という説が旅行案内書にのっていたが、あまり納得できる説ではないように思う。パーリ語は釈尊が使用していたとされるインドの言葉である。

ミャンマーで最も古く、そして最も有名なパゴダは、ヤンゴンにある高さ九九・四メートルのシュエダゴン・パゴダである。また古都バゴーには一一四メートルのシュエモード・パゴダがある。なお世界でいちばん高い仏塔は、タイ国のナコーン・パトムにある一二〇・四五メートルのプラ・パトム・チェディだという。

シュエダゴン・パゴダは黄金色に輝く仏塔である。高さが百メートル近くあるし、薄い金箔ではあれほどきれいな黄金色にならないはずなので、使われている金の量は半端ではないと思う。だから歴代の王や王妃が、自分の体重と同じ重さの純金の金箔をこのパゴダに貼り付けるのを習わしにしていた、というのは本当のことだと思う。そうした王や王妃をまねているのかもしれないが、この国には仏像やパゴダに金箔を貼りつける習慣があり、そのための金箔を寺の入口で売っている。またシュエダゴン・パゴダの周囲には何百体もの仏像が並んでいた。みんなが寄進するためどんどん増えていくのだという。

この国では裸足にならないとお寺参りができない。そのためバスの中で靴と靴下を脱いで下車することになるが、二月とはいえ南部のヤンゴンやバゴーでは三〇度を超えていたから、裸足で歩いても寒くはない。この気候と裸足になることを考えると、ミャンマー旅行にはつっかけが適している。

この国のほぼ中央に世界三大仏教遺跡のひとつバガン遺跡がある。ここの地名は以前はパガンであったが、国名がミャンマーに変更されたときここもバガンに変えられた。だから現在名はバガン、歴史的名称はパガンということになる。ここはビルマ最古のパガン王朝が都を置いたところであり、そのためビルマの起源はパガンからといわれる。

仏教王朝だったパガン王朝は、建塔王朝と呼ばれるほどたくさんのパゴダを作り、あまりに作りすぎたために貧乏し、中国の元王朝に滅ぼされた。ガイドの説明では四千ほどのパゴダが作られ、今も二千五百ほどが残っているという。

その中のひとつパゴダシュエサンドー・パゴダ(一〇五七年建立)の上から眺める夕日は、バガン観光の名物になっている。そのため夕方になると、たくさんの観光客がこの古いパゴダに集まって来て、急勾配の滑りやすい階段を四方から登り、五層の回廊からあふれ落ちそうになりながら夕日見物をする。また周囲に林立するパガン王朝が国を傾けて作ったパゴダ群の眺めもすばらしいものであり、この夕日見物がこの旅行の一番人気であった。

     
ミャンマーの仏教

ヤンゴンには外国人が無料で修行できる道場が五ヵ所あるという。また外国人向けの仏教大学もあるという。多くの外国人が仏教を学びにミャンマーへ来ているのであり、この国は仏道修行を志す人の有望な選択肢の一つになっているのである。

ミャンマーの仏教は、釈尊の教えをそのまま伝えてきたとされる上座部(じょうざぶ)仏教である。お酒も飲まず、結婚もせず、お金も所持せず、昼を過ぎたら食事もせず、という戒を出家が守っている国である。この国が初期の形の仏教をそのまま受け入れることができたのは、気候風土がインドとよく似ていることが一つの理由だと思う。国境を接しているから当然かもしれないが、とくに農村地帯の景色はよく似ているので、インドを旅行しているのかと錯覚することがあった。

ミャンマーには十世紀以前の歴史を伝える文書がほとんど残っておらず、そのため仏教関係の歴史も不明な点が多いという。言い伝えによるとシュエダゴン・パゴダの起源は、紀元前五八五年にさかのぼるといわれ、タポゥタとパッリカという兄弟の商人がインドで釈尊から八本の聖髪をもらい受け、それを納めたのがこのパゴダの始まりとされる。

この二人の商人と思われる人物のことが、四分律(しぶんりつ)の受戒ノ度(じゅかいけんど。受戒の章)に載っていた。それは釈尊が悟りを開いた直後のことである。

「その時、世尊、七日のあいだ菩提樹下において結跏趺坐して動ぜず解脱の楽を受けたまう。世尊七日を過ぎおわりて定意より起ちたまう。七日の中において未だ食う所あらず。時に二賈客(にこかく。二人の商人)の兄弟二人あり。一を瓜と名づけ、二を優婆離(うばり)と名づく。五百の乗車をひきい、財宝を載せ、菩提樹を去ること遠からずして過ぐ・・・」

そしてこの二人の商人が釈尊に、成道後の最初の食べ物を供養し、また仏と法に帰依することで(僧はまだ成立していない)、最初の優婆塞(うばそく。男の在家信者)になったとある。ただしこの文献には、そのとき釈尊が髪の毛と爪を与えたとは書いてあるが、それがビルマの商人であるとか、髪が八本ということは書いてない。なぜ律蔵にこうした記録が残っているのかというと、教団が成立する過程は戒が成立する過程と重なっているからである。

もう少し信頼できる歴史としては、上座部仏教の史書タータナーリンガーヤ・サダンに、一〇五六年に南ビルマのモン族の高僧シン・アラハンが、スリランカから上座部仏教を伝えたとある。そしてその仏教をパガン王朝が採用したことで、上座部仏教がビルマで主流になったという。この国ではそれまで大乗仏教やヒンズー教も信仰されていたのであり、そのためだと思うがこの国の仏教にはヒンズー教の影響が感じられる。

また十二世紀には、ウッタラジーバとチャパタという僧が再びスリランカの仏教を伝え、こうしてスリランカ系上座部仏教が正統派の地位を確立していった。スリランカへの留学僧の派遣はたびたび行われ、一四七五年にも仏教改革のために使節団をスリランカへ派遣している。

一七八八年には、戒律の解釈の違いから生じた対立解消のために、全国的な宗教会議を開き教団の統一をはかった。

一八七一年には、マンダレーで第五回仏典結集をおこない、経典を七二九枚の大理石板に刻んでクトゥドー・パゴダの中に納めた。これが世界でいちばん大きな本といわれる経典である。

こうした努力の結果この国は東南アジアにおける仏教の中心地となり、ポルトガルとオランダとイギリスの植民地になって衰退したスリランカ仏教を支援するため、スリランカへ仏教を輸出するまでになった。このようにミャンマー仏教は、改革と浄化を繰りかえしながら伝えられてきた仏教であり、自分たちの仏教は釈尊に直結する正統派の仏教だという誇りをミャンマー人は持っている。この国は政治的、経済的には恵まれていないが、仏教に関しては素晴らしいものを受け継いできた国なのである。

ミャンマーは国民皆僧の国なので、男性は七歳から十一歳までの間に一度、二〇歳を過ぎてからもう一度、僧院で修行することが望ましいとされている。期間は四日から七日ぐらいというから、僧院生活の短期体験といったところである。ある寺でこれから出家するという二人の子供を連れた一家を見かけたが、その子供たちは着飾った上に化粧までしており、出家というよりも七五三か元服式のような感じであった。ミャンマーには四〇万人の僧がいるとガイドが言っていたが、その中にはこうした体験出家の小僧さんは含まれていないという。

慰霊で訪れた墓地の近くに火葬場があったことから、火葬やお墓のことが話題になったとき、この国では遺骨の処理は火葬場まかせになっており、収骨したりお墓を作ったりはしないとガイドが言っていた。ただしなぜ墓を作らないのかときいたら、お金がないという答えが返ってきたから、金持の中にはお墓を作る人があるかもしれない。

     
仏教初伝の地スワンナブーミ

六世紀に書かれたスリランカのパーリ語史書マハーバンサによると、仏教を保護したことで知られるインドのアショカ王は、紀元前三世紀に第三回仏典結集をおこない、それから九つの地域に多数の開教師を派遣し、スワンナブーミという国にはソーナとウッタラという二人の僧を派遣したという。スワンナブーミには「黄金の国」の意味があり、この黄金伝説を持つ国は中国の文献では金地国(こんちこく)と呼ばれている

またシュエダゴン・パゴダの碑文(一四八五年)や、バゴーのカルヤーニ碑文(一四六七年)には、「釈尊の滅後二三六年を経て、ソーナテーラとウッタラテーラの二僧正がスワンナブーミ国に来訪し仏教が確立した」とあるという。

このスワンナブーミは、ミャンマーではヤンゴン東方のタトンとされているが、発掘調査をおこなっても確証は得られなかったという。なおガイドの話では、スワンナブーミとされる場所はミャンマーとタイとマレーシアの三ヵ国にあるという。

今回の旅行はタイのバンコク経由でミャンマーに入った。そのとき平成十八年に開港したバンコク国際空港を初めて利用した。この空港は東南アジアの拠点空港の座を狙って作られた、敷地面積で成田の三倍、旅客用建物の床面積では世界一という巨大空港である。

この新空港は日本ではスワンナプームと呼ばれているが、タイ航空のホームページを見ると、なぜかローマ字表記ではスバルナブーミ(Suvarnabhumi)となっており、「スワンナプームは黄金の土地を意味し、プミポン国王によって命名された」と説明があった。国王がこの名前を付けた理由は載っていないが、東南アジアで初めて仏教が伝わったとされる場所の地名を付けたのはまちがいないと思う。(追記。Suvarnabhumiをタイ人が発音するとなぜかスワンナプームになるという)

ミャンマー人のガイドはこの空港名にひどく腹を立てており、ミャンマーがタトンに新しい空港を作ったら、スワンナブーミという名前を付けてやると息巻いていた。しかし同じ名前の空港が二つあるのはまぎらわしいし、日本の地方空港のようなヤンゴン国際空港から判断すると、新しい空港を作る必要も資金もないように思う。

参考文献
「地球の歩き方・ミャンマー」2004〜2005年版 ダイヤモンド・ビック社
「もっと知りたいミャンマー」第2版 綾部恒雄・石井米雄 平成6年 弘文堂
「旅名人ブックス・ミャンマー」邸景一・武田和秀 2003年 日経B・P
「ミャンマー情報事典」アジア・ネットワーク編 ゑゐ文社 1997年
「ヤンゴン河の虹、ミャンマー民話集」野口栄一郎 2003年 文芸社
「地獄の戦場泣きむし士官物語」比留間弘 1994年 光人社
「祭兵団インパール戦記」深沢卓男 2004年 光人社
「菊兵団地獄の戦場物語」新井貞一 1994年 光人社

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