一得一失の話
千百年ほど前の中国に法眼(ほうげん)禅師という方がおられた。五家七宗(ごけしちしゅう)の一つ法眼宗の祖である。その法眼禅師に次のような話がある。
ある日の食事のとき、法眼禅師が黙って御簾(みす。竹で作ったすだれ)を指さした。すぐに二人の僧が立ちあがり御簾を巻き上げると、和尚が言った。「一得一失(いっとくいっしつ)」
話はこれだけである。一得一失はここでは「一人は合格、一人は不合格」という意味で使われている。ところが和尚は、どちらが合格でどちらが不合格か、何が良くて何が悪いのか、ということは一言もいわない。だから二人の僧は、自分が合格か不合格か、何がいいのか悪いのか、さっぱり分からない。
一人は合格、一人は不合格、と突然揺さぶりをかけられると、足元がお留守になっている人や、自分に自信のない人は、何か失敗をしでかしたかとうろたえる。揺さぶられて気が動転してうろたえるようなことだと、これは不合格、というのがこの話の一つの見方である。
またこの言葉は別の面から味わうこともできる。私たちは常にものごとに点数を付けて、いいとか悪いとか言っている。しかし、たとえば天気がいいとか悪いとかいうが、雨が降るのはいいのか悪いのか。風が吹くのはいいのか悪いのか。花が咲いたり散ったりするのはいいのか悪いのか。生まれてきて歳をとり死んでいくのはいいのか悪いか。何ごともいい面と悪い面の両方を持っているのであり、またいいと言っても悪いと言ってもすべて夢まぼろしの世界のできごとなのである。
「衆生本来仏なり」という本分の世界に得失是非はない。いつでも、どこでも、誰でも、何物でも、何の不足もなくその所を得て光り輝いているのであり、悟っていても迷っていても、金持ちでも乞食でも、赤ん坊でも年寄りでも、みんな百点満点の仏さまとして、それぞれの役割を与えられて生きているのである。このような絶対価値の世界を開拓しなければ、安心も満足もできないのである。
参考文献「無門関」安谷白雲 一九八一年 春秋社
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