イタリアの話
平成十八年十一月、イタリアを旅行してきた。急な誘いにのって参加した準備不足の旅行であったが、街並み保存と、電柱と、信号、の三点をしっかり見てこようと思いながら出発した。よその国を見ることは日本を知ることにつながる。外から日本を眺めて初めて気がつくこともある。
この旅行ではイタリアを北から南へ縦断し、古い街並みを眼目のように大切にしているミラノ、ベローナ、ベニス、ローマ、パレルモの五都市を見てまわった。
この国の古い建造物はみな石でできている。地震のないヨーロッパなら、石造りの建造物は千年でも二千年でももつと思う人があるかもしれないが、地震がなくてもお墓でさえ五〇年もたてば傾いてくるのだから、巨大建造物がそんなに長持ちするはずがなく修理中の建物をいくつも見かけた。
古い建物を修理するときの基本は、元からあるものをできるだけ残すことらしく、石のかけら一つにいたるまでそのまま残そうとするイタリア人の熱意には感心した。保存した遺跡の上に新しい建物が建っているのもローマで見た。しかし古い建物や街並みは決していいことばかりではない。道が狭くて車の通行に不便だし、古くてうす汚れた建物が並んでいると陰気でもある。街の中のところどころに広場が作られているは、そうした圧迫感を減らすための工夫だと思う。
またイタリアの旧市街は大聖堂を中心に放射状に道が付いているので、道が碁盤の目になっておらず分かりにくい。私は方向感覚には自信を持っているが、ミラノで朝の散歩に出たときたちまち迷ってしまった。これは日本の城下町が敵を迷わせる迷路になっているのと同じ理由かもしれない。こうした不便があっても陰気であっても、イタリア人は古い街並みを大事にしているのである。
旧市街の道路にはたいてい石畳が敷かれており、ある町で足元の新しい石畳がいつ敷かれたのかときいたら、二年前という答えが返ってきた。今でも千年二千年の使用に耐えるものを少しずつ増やしているのであり、最初に費用はかかっても長もちする上質のものを選択するこの国では、百円ショップは商売にならないと思った。イタリア人は華やかなものを好む民族だと思っていたが、建物にしても道具にしても重厚なものばかり目についたのであった。
古いほどいいというイタリアのやり方と対照的なのが日本のやり方である。日本人は新しい物好きであり、家などもきれいさっぱり作り替えることを好む。伊勢神宮など二〇年に一度建て替えているのであり、こうしたことが住宅を短期間に建て替えるやり方につながっているのかもしれない。それにしても最近日本で建てられる家は泣きたくなるほど貧相な家ばかりである。もっと重厚でおもむきのある家を建てられないものかと思う。貧相に見える原因の一つは外壁に耐火性の安っぽい新建材を使っていることであり、これに関しては国の規制が貧相な街並みの原因を作っているのである。
この旅行中、市街地では電柱は一本も見なかった。市街地の電線はすべて地下に設置されていたのであるが、郊外に出ると電柱も送電用の鉄塔もたくさんあった。
イタリア人はお洒落な人が多い。また男も女も見とれるほど姿勢がいい。みんな自分の良さをできるだけ引き出そうと努力しているのであり、私ももっと自分を美しく見せる努力をしなければいけないと反省した。イタリア航空の客室乗務員の男はみんな上手にヒゲを生やしていた。日本の職場ではヒゲは認められていないようであるが、童顔の日本人こそもっとヒゲを活用するべきだと思った。
これまでの旅行経験からすると、日本は世界でいちばん信号の多い国である。これだけ信号があると運転する楽しみなどなくなるし燃費も悪くなる。もっと楽しく運転できる道路作りをしてほしいと思う。
イタリアにも信号はあるが日本に比べるとはるかに少なく、郊外の交差点はほとんど環状交差点になっていた。環状交差点には、面積が大きくなる、初期費用がかかる、などの欠点があるかもしれないが、信号待ちせずにすむ、維持費がかからない、何よりも停電したときに問題が起きない、などの長所がある。私は信号が停止した交差点が無法地帯になっているのを見たことがある。だから日本以外の国では郊外の交差点はほとんど環状交差点になっている。もちろん日本にも環状交差点に適した交差点はたくさんあるのだが、日本の道路管理者は信号を作ることしか頭にないのである。
信号機を設置するよりもっと大事なことがある。それは横断歩道における歩行者優先を徹底させることである。これさえ徹底すれば信号機を半分に減らせるのであり、信号機が林立しているのは、譲り合いの精神の欠如をあらわす恥ずべきことなのである。
もどる